ニセ「和平」(オスロ合意)への経緯とその後

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パレスチナの国旗

※ イメージ図(©photoAC)

イスラエルは、2023年10月7日のハマス等によるイスラエルへの攻撃を口実として、パレスチナのガザ地区に対してジェノサイドを行っています。これは、無差別の砲爆撃のみならず、医薬品・食料・水・電気等の搬入を停め、さらには医療従事者や報道記者を狙撃するなど近代戦争のルールを無視して行われています。

しかし、イスラエルとパレスチナの「和平」の動きを妨害してきたのは、現在、イスラエルの政権を握っている与党リクードでした。リクードが、パレスチナとイスラエルの少なくない国民の和平への動きを妨害してきたことが、現在のイスラエルによる攻撃の大きな背景となっています。

イスラエルとパレスチナが和平に向けて行ったオスロ合意は、現実にはパレスチナに対するイスラエルの植民地支配を合法化する結果となり、これがハマス等による攻撃の一因となった面も否定はできません。しかし、リクードはその和平合意さえ妨害してきたのです。

本稿では、オスロ合意の本当の意味とそれがパレスチナにもたらしたこと及びリクードによる和平の妨害の動きについて、概説しています。

私たちが目指すべきは、パレスチナ人とユダヤ人がともに平和に生きられる社会です。パレスチナ人とユダヤ人の友好が実現し、ともに若者が未来に夢を持てる社会の実現なのです。しかし、その実現のためには、まず、世界がこれまでの「和平」の動きの本質とリクードによる妨害の歴史を知る必要があります。




1 第一次インティファーダ

執筆日時:

最終改訂:

1977 年に、イスラエル国内の有力政党で最右派のリクードが政権についた(※)。その結果、占領地への締め付けが厳しくなり、ユダヤ人の占領地の入植者による、パレスチナ人への暴行、強姦、窃盗、違法な農地の破壊、住居の破壊なども増え始めた。

※ イスラエルでは選挙の結果、最多数を得た政党が連立政権を作る慣行がある。建国以来、これまで単独で過半数を得た政党はなく、常に連立内閣となっている。最多数を得た政党が連立政権の樹立に失敗すると、第2党が連立政権を組むことになる。

このような入植者の行為について、イスラエル政府は見て見ぬふりをするだけならまだしも、しばしばイスラエル軍が入植者による暴行を支援していたのである(※)

※ シルヴァン・シベル「イスラエル VS. ユダヤ人」(2022年 明石書店)の第1章及び第2章には、イスラエルによるパレスチナ人への犯罪行為がどのように行われているかが紹介されている。なお、シルヴァン・シベルは、米国在住のユダヤ人である。

これに対して、パレスチナ人の抗議行動が巻き起こった。大部分は平和なデモだったが、投石が行われることもあった。だが、このときは主催者の方針によって、投石以上のことが行われることはなかった。

イスラエル軍は、これらの抗議行動を行うパレスチナの市民(ばかりか巻き込まれただけの市民や、負傷者の救護活動を行う医療関係者も含めて)に対して、催涙弾、ゴム弾、そして実弾を撃ち込んだのである(※)。また、未成年者を捕らえて、裁判もなしに片っ端から刑務所へ放り込んだ。

※ この時期ではないが、パレスチナのデモ行為に対して、イスラエルがどのように対応しているかは、渡辺丘「パレスチナを生きる」(朝日新聞出版 2019年)などに詳しい記述がある。

1987年12月、イスラエル軍の戦車輸送トラックが、パレスチナの労働者が乗っているワゴン車に激突して4人を殺害するという事件が発生した。イスラエル軍は事故だと主張したが、意図的であることは目撃者の証言から明らかだとパレスチナ側は感じた(※)。抗議行動はこれを機に急速に拡大したのである。

※ 事件の経緯から考えれば、実際に意図的だったと考えるのが自然である。

第一次インティファーダは、必ずしも PLO が指揮していたわけではない(※)が、1988年にヤーセル・アラファトは2国家並立を受け入れ、テロ放棄宣言を行う。

※ レバノン内戦で失策を繰り返したアラファトは、当時、チュニジアに根拠地を置いており、第一次インティファーダに影響を及ぼすことはなかった。第一次インティファーダは自然発生的な要素が強かったのである。アラファトがテロ放棄宣言を行ったのは、PLO の指導力の回復を目指していたとする説もある。

ラシード・ハーリディー「パレスチナ戦争: 入植者植民地主義と抵抗の百年史」(法政大学出版局 2023年)によれば、アラファトは「アメリカが自分たちの主張や目的に関心がなく、むしろ軽蔑すらしていることを理解していなかった」、おそらく米国政府高官の多くがアラブ人を人権を尊重するべき人間だとさえ思ってはいなかったということにも気づいていなかっただろう。

しかし、抗議行動は、一部のシオニストが主張するようなテロではなく、正当な抗議の意思表示である。抗議行動はその後も拡大し、イスラエル側は抗議活動を行う若者に対して催涙ガス、ゴム弾、ときには狙撃銃で実弾を撃ち込み、死傷者数は増加の一途をたどった。イスラエルに対する国際的な非難の声も高まり、非難の対象は米国にも向けられるようになった。

※ ゴム弾とは、実弾の周囲をゴムで覆ったもので、殺傷能力がある弾丸である。

この状況に危機感を抱いた米国のブッシュ大統領は、1991年になってイスラエルのイツハク・シャミル首相と、アラファト PLO 議長、それに周辺国家の首脳をマドリードに集めて、仲介を行おうとした(※)

※ 米国も、この頃は(やむを得ずではあったが)イスラエルの暴走を止めようとするだけの理性があり、イスラエルの側も(しぶしぶではあったが)それに従うだけの分別があったのである。なお、1991年はソ連が崩壊した年である。ソ連崩壊に伴い、ロシアから大量のユダヤ人が米国とイスラエルに移動していた。

しかし、パレスチナとの和平工作に反感を持ったシャミルは、入植をさらに進め、これがパレスチナのさらなる抗議と米国のいらだちをもたらすことになる。


2 ハマスの誕生とラビン政権の誕生

PLO は、ファタハ、PFLP、DFLPなど様々なパレスチナ解放勢力が所属する機構で、パレスチナの実質的な内閣のような役割を果たしている。ファタハは政治的には多様な人材を受け入れているが、PFLP は社会主義に近い考えを持つ人が多いようである。最近では、イスラエルとの妥協を図っており、最大勢力のファタハ内部で汚職などの腐敗も進んでいるとしてパレスチナ人の間でも全面的な信頼を失いつつあることも事実である。

これに対し、イスラム原理主義を思想的な背景とするハマスが台頭してきた。彼らは基本的に汚職などとは無縁で、パレスチナ人の生活向上のための運動にも熱心であった。イスラエルとの和平についても懐疑的(※)で、パレスチナ人の人気を集めることとなった。

※ イスラエルは、西岸で入植を進め、入植者によるパレスチナ人への暴行、農地の破壊、住居の破壊なども日常的に行われている。また、ガザを完全に封鎖しその生活を破壊しているばかりか、繰り返して無差別爆撃を行っている。イスラエルとの和解を勧めるという PLO の考え方が、パレスチナ人の間で受け入れられないのはイスラエルの側に責任があると言うべきである。

ところが、イスラエル政府は、当初はハマスの台頭をむしろ歓迎し、支援さえしたのである。これは PLO に対抗するためだったと言われるが、実は、ハマスが建前上はイスラエルとの和平に反対していたことが理由だったのではないか(※)と思われる。和平に反対していたシャミルが、その点に利害の一致を見出したというのが真相に近いだろう。

※ よく誤解されているが、ハマスはイスラエルを承認してはいないが、2国家解決に反対はしていない。48 年占領地(グリーンライン)を前提とした2国家の並存を認めているのである。例えばニュースウィーク2023年11月21日記事「【一覧】イスラエルに対抗するのはハマスだけではない...知っておくべき、これだけ多くの政治・武装組織」(2ページ目の記述)など。

現在、2国家解決を否定しているのは、西岸での入植を進めているベンヤミン・ネタニヤフの方である。このため、国際動向に詳しい専門家の一部は、2国家解決の現実性は乏しいと考えている。しかし、米国は、CNN 2024年01月10日記事「米国務長官、イスラエルが2国家解決に向け動く必要あると発言 安全保障面でアラブ諸国の支援望むなら」にもあるように、2国家解決を現実的な解決方法だと、今でも考えている。これは、欧州と日本の政府、そして国連も同様である。

一方、シャミルの態度に業を煮やした米国は、1992年に、イスラエルの債務保証の一部を取り消すなどの脅しをかけた。イスラエル国内でも、厭戦気分が広まっており、その年の選挙でシャミルは大敗し、労働党のラビン内閣が成立するのである。

ラビンは、アラブ系政党に閣外協力を呼び掛けて内閣を成立させた。これはイスラエルの歴史において前例のない出来事である。彼は、イスラエルが存続するためには、和平が必要だと確信していた。

もちろん、彼が和平を望んだのは、正義感からではない。パレスチナを和平の名目で懐柔し、より狡猾で残忍な支配を行うことが目的であった。さらには、民族解放闘争を行うパレスチナの側を「テロリスト」と位置付ける一方でイスラエルを平和を愛する国家というイメージを醸し出す。そして、実際にはパレスチナを分断して経済的・政治的な自立を防いで巧妙に支配し、さらには国際的な援助をパレスチナに注ぎ込むようにして、イスラエルがその経済的な利益を図ろうとしていたのである(※)

※ これについての詳細は、サラ・ロイ「ホロコーストからガザへ(新装版)」(青土社 2024年)、ラシード・ハーリディー「パレスチナ戦争: 入植者植民地主義と抵抗の百年史」(法政大学出版局 2023年)などが参考になる。


3 オスロ合意

(1)オスロ合意とガザジェリコ合意

ア オスロ合意の成立

ラビンはアラファトを信用していなかったし、それはアラファトも同様だったが、和平が必要でありそのためにはお互いに交渉しなければならないとは理解していた。だが、和平交渉などというものは、多くはそうしたものである(※)

※ 世界史上最初の和平条約と言われるのは、紀元前のエジプトとヒッタイトの間で結ばれたものであるが、当事者だったラムセス2世もハットゥシリ3世もお互いに信用してはいなかっただろう。だからこそ条約が必要だったのだ。

そして、1993年にパレスチナの自治権についてのオスロ合意が成立し、それに基づいて1994年にラビンとアラファトは和平協定(ガザ・ジェリコ合意)に調印し、イスラエル軍はガザ地区とエリコから撤退しパレスチナ自治政府が成立したのである。


イ リクードによるオスロ合意批判

リクードは、ラビンはテロリストと交渉したとして強硬に批判した。また、ラビンもアラファトをテロリストだと主張している。しかし、実際にはアラファトが所属するファタハは、1980 年代以降はいわゆる「テロ行為」を行っていない。一方、イスラエルの現在の与党リクードの前身であるイルグンは、英国統治時代に、英国人が経営するホテルを爆破して、テロ組織との認定を受けたことがある(※)

※ 第二次大戦中にはテロという言葉はなかったが、仮にあればナチは非侵略国家のパルチザン部隊をテロリストと呼んだであろうし、日本軍は八路軍や便衣隊をテロリストと呼んだであろう。

確かに、パルチザン部隊や中国の過激派が非武装の市民を襲ったことがあるのは事実であるし、それは当時においても現在においても犯罪行為であることに変わりはない。霧社事件はセデック族による日本人市民の集団殺害が発端となっている。また、通州事件(冀東防共自治政府(親日政権)の軍人を中心とした中国人が、日本軍や日本人入植者を襲撃した事件)でも非武装の日本人市民が襲われている。

だが、だからといって[侵略者 vs. 民族解放闘争]という基本構図が崩れるわけではないのである。

繰り返すが、非武装の市民を殺害することは犯罪行為であり許されることではない。しかし、基本的な構造は、侵略者・抑圧者はイスラエルの側であり、パレスチナの側はそれに対する民族解放のための闘争を行っているのである。その基本構造を見失ってはならない。


(2)ガザ・ジェリコ合意の不平等な内容

ア ガザ・ジェリコ合意の内容

ただ、よく誤解されているのだが、オスロ合意でヨルダン川西岸からイスラエルが完全に撤退したわけではない。ヨルダン川西岸は、イスラエルにとって聖地を多く含む土地であり(※)、ラビンとしても簡単に明け渡す気はなかったのである。

※ 旧約聖書はユダヤ人の神話上の歴史書であるが、ユダヤ人の始祖であるアブラハムが息子を神のいけにえにしようとした場所を始めとして、聖書の様々なエピソードの多くの舞台が西岸に含まれている。

ヨルダン川西岸は、A、B、Cの3つの地域に分けられた。A 地域はパレスチナ自治政府の管轄におかれるが、面積は西岸全体の 18 %にすぎず、西岸の中にスイスチーズの穴のように点在しており、お互いにつながってはおらず、イスラエルの検問所を通らなければ行き来することさえできない。しかも、イスラエルの治安部隊は A 地域内で活動する権利を有しているのだ。

B 地域は、パレスチナ自治政府とパレスチナ-イスラエル合同保安体制の管理下にある。ヨルダン川西岸の 20 %を占めるに過ぎない。

C 地域は、西岸の 61 %を占め、天然資源の多くはこの地域内に存在している。入植地、イスラエル人専用道路、イスラエル軍事基地などがあり、事実上イスラエルの支配地域である。

しかし、西岸に住む入植者は、イスラエル国民として選挙権を有しているが、ガザ地区と西岸に住むパレスチナ人はイスラエル国民として認められておらず選挙権は有していない(※)。ガザと西岸を実質的に支配しておきながら、形式的にはイスラエルではないとすることで、パレスチナ人に参政権を与えなくともイスラエルは制度的にアパルトヘイト国家ではないと主張ができるわけである。

※ グリーンラインの内部とガザと西岸を合わせると、ユダヤ人はパレスチナ人(アラブ人)の数を下回る。このため、ガザと西岸を併合すればイスラエルは、パレスチナ人の参政権を制限してアパルトヘイト国家との批判を受けるか、パレスチナ人に参政権を与えてユダヤ国家でなくなるかしかない。これが、2023年10月以降に、ガザの無差別爆撃を行ってパレスチナ人をガザから追い出そうとしている理由であろう。なお、ゴラン高原にはドルーズ派のアラブ人が2万人程度居住しており、シリア国籍を失ってはいないがイスラエルの法律では永住者とされている。


イ ガザ・ジェリコ合意がパレスチナにもたらしたもの

ラシード・ハーリディーは、この合意の結果、パレスチナ人の生活は極度に悪化したとしている。それまで、ガザと西岸からグリーンラインの内側へは自由に通行ができたにもかかわらず、この条約以降は通行許可証が必要になってしまったのだ。しかも、通行許可証は簡単には発行されず、境界に設置された検問所を通るには長時間、待たされることとなってしまった。また、西岸の A 地域の間の移動もきわめて困難となってしまったのである。

※ 詳細は、ラシード・ハーリディー「パレスチナ戦争: 入植者植民地主義と抵抗の百年史」(法政大学出版局 2023年)を参照されたい。この本の第6章は、オスロ合意がパレスチナ人に何をもたらしたかについての最高の解説書となっている。

さらに生活に必要な水や電力はイスラエル側が押さえてしまい、嫌がらせ的に止められることも多かった。ガザでは下水処理施設の構築もできず、衛生状況は極めて悪化した。

これが、その後のインティファーダや10月7日などのパレスチナの抵抗につながり、この抵抗に対してイスラエル側は徹底した無差別爆撃などで応じた。この合意は、パレスチナにとって何のメリットもなく、その後の苦難の原因となるのである。

これは、イスラエルとそれを支持する米国の圧倒的な武力を背景にした条約であり、パレスチナの側にとってきわめて不利な内容となっていた。アラファトは満足したかもしれないが、パレスチナの側にとっては不満の残る内容だった。これでは、入植者による暴行、殺人、いわれなき逮捕・監禁は今後も日常的に続くと考えられたのである。そして、事実、そうなった。

ここに紹介するポストは、ごく日常的なヨルダン川西岸の状況である。

この条約の結果、ファタハは暫定自治政府を構築するが、イスラエルの下請け組織のような立場となってしまい、しかも汚職と腐敗が話題に上がることが増えた。このため、ファタハ及び暫定自治政府は、パレスチナ人の信頼を急速に失っていったのである。


(3)シオニストの不満

一方、シオニストの過激派は、「川から海まで」(※)すなわちヨルダン川と地中海に挟まれたパレスチナのすべての地域がイスラエルのものになるべきだと考えていた。彼らもまた、和平に反対していたのである。シオニストの過激派の間では、ラビンに対する不満が高まっていった。

※ 2024年1月24日、ネタニヤフは、イスラエルメディアを対象にした会見の場で、「イスラエルは将来、川から海まで(From the river to the sea)全ての地域をコントロールすることになる」と主張した。これは、パレスチナ国家の樹立を否定するものである。

このスローガンはパレスチナの側も用いることがある。これはパレスチナの側にとっては正当なものであるが、パレスチナ側が用いるとイスラエルの生存権を否定しているとして批判される。英国労働党は、親パレスチナ集会で「川から海まで」という言葉を使ったアンディ・マクドナルド議員を停職処分にした。ロンドン警視庁はこのスローガンを叫ぶだけでは人種差別などの犯罪行為には当たらないとしているにもかかわらずである。

「文明国」であるイスラエルがアラブであるパレスチナの存在を否定することは問題はないが、パレスチナの側がイスラエルの存在を否定することは反ユダヤ主義として許されないというどうみても不公平な主張が、国際社会(という名を用いる日米欧)の正義に合致するらしい。

なお、ハマスは2017年の改正綱領で、パレスチナ国家はヨルダン川西岸、ガザ及び東エルサレムに樹立されるとしており、「川から海まで」というスローガンは使用しない。


4 ラビンの暗殺とバラクの登場

当時、野党の立場だったリクードのネタニヤフは、ラビンの和平への動きを強く批判していた。1995年10月には、エルサレムで和平の動きに反対する大規模集会を開いた(※)。参加者たちは、「ラビンに死を」と唱和し、ラビンの絵を燃やすなど強い反感を示していた。

※ ここに挙げた @DrLoupis によるポストの動画は、参考動画であり、このときのものではない。

このようなイスラエルの雰囲気の中で、ラビンはシオニストの過激派に暗殺されて、その生涯を閉じるのである。パレスチナ-イスラエル問題の解決が困難であることを示す象徴的な事件であった。

そして、その直後に行われたイスラエルの選挙の結果、ラビンの和平工作に強く反対していたネタニヤフが首相となるのである(※)

※ すべてのイスラエル人、あるいはすべてのシオニストが、和平工作に反対していると理解するべきではない。ネタニヤフの選挙での勝利は僅差であった。

それでも、米国大統領のクリントンは、ネタニヤフに圧力をかけて和平の動きを後退させないようにした。そして、ネタニヤフもこのときは現実的な対応をし、1998年には和平協定を更新させるなど一定の効果は得られたのである。

ところが、このことはネタニヤフがその支持基盤からの信頼を失う結果となった。ネタニヤフは不信任投票によって政権を失い、皮肉なことにその後には再び労働党のバラクが政権を取るのである。

バラクは、和平交渉を継続する姿勢を見せ、2000年にはイスラエル軍を南レバノンから撤退させた。その一方で、パレスチナの代表を相手にせずシリアとの交渉を優先させたり、それまでの仮合意の一部を反故にするなど、パレスチナを怒らせる戦術をとったのである。


5 イスラエルによる和平への動きの妨害

(1)第二次インティファーダ

クリントンは2000年にバラクとアラファトをキャンプデービットに呼び出し、和平合意の道を探ろうとしたが、バラクの態度はかたくな(※)でアラファトの合意を得ることはできなかった。

※ バラクは、西岸の 92 %の返還は認めたが、そもそも西岸は本来のパレスチナの 22 パーセントにすぎないのである。また、東エルサレムについてのパレスチナの要求を頑として認めなかった。バラクは、そもそも交渉をつぶそうとしていたのではないかと思われる。

結局、彼は、和平工作に積極的になることは、政治生命(ばかりか生物学的な生命まで)を危険にさらすと理解していたのである。この人物は、政治的な理想のために何かをかけるということよりも、自分の地位と生命を守ることの方を重視する人物だった。

そして、キャンプデービットで会談が行われていた頃、イスラエルではシャロンがパレスチナに対する重大な挑発を行ったのである。数機のイスラエル軍のヘリと、1,000人~3,000人程度の護衛(※)に囲まれてエルサレムのアラブ人の聖地に入り、ここはイスラエルの領土だと宣言したのである。

※ 護衛の人数は、イスラエル側の主張は 1,000 人であるが、パレスチナ側は3,000人であるとしている。おそらく、実数はその間にあるのだろう。

インティファーダ

※ イメージ図(©photoAC)

この挑発に対してパレスチナの側は抗議活動を行った。すると、抗議するパレスチナ人に対して、イスラエルはゴム弾を撃ち込んだのである。このため、パレスチナ側の抗議活動が西岸のみならず。ガザ地区にまで広がった。これが、第二次インティファーダである。

パレスチナ側にとって、きわめて不利な内容の和平条約まで、イスラエルのシオニストの強硬派はつぶそうと図ったのだ。

イスラエル軍は、イスラエルに対して抗議をする者に対しては容赦のない銃撃を行うが、イスラエル軍は無関係の市民を殺害することを避けようとする努力をしない傾向がある(※)

※ 第二次インティファーダでは、抗議活動に参加していない父子が銃撃され、12 歳の子供が殺害される事件が起きている。

なお、NHK 2023年10月13日「イスラエル軍 2014年にガザへ地上侵攻 激しい市街戦も」によると「(イスラエルは2014年の地上侵攻において:引用者)イスラエルのメディアはのちに、このときは兵士が捕虜になるのを防ぐため、その安全にかかわらず敵を集中攻撃する「ハンニバル指令」と呼ばれる命令が出されていたと報じ、物議を醸しました」としている。

また、「イスラエルの攻撃で市民に死者が出るのは、ハマスが市民を人間の盾にしているからだ」という「識者」がいるが、そもそもイスラエル軍は自らの攻撃で市民に死者が出てもまったく気にしないので、人間の盾などということはあり得ない。

また、2000年10月前半には、イスラエル国内でもパレスチナ系イスラエル人(※)の抗議活動に発砲して、12人の非武装の市民を殺害した。

※ イスラエル政府は、パレスチナという用語を避けるため、アラブ系イスラエル人と呼んでいる。パレスチナという民族を否定する目的のある呼称である。

さらにイスラエル軍の軍人2名が、道に迷ってパレスチナのラマッラに迷い込み、自治政府側に保護されたが、パレスチナの群衆に殺害されるという事件(※)が起きると、イスラエルは西岸とガザの自治政府に対して報復として空爆を行った。

※ 自軍の兵士が殺害されたからと言って、非武装の民間施設を爆撃するのは国際法違反である。第二次大戦でも、日本軍は、日本人将校が殺害された大山事件を理由として、海軍が中国侵略を行っているが、侵略行為が免罪されるようなものではないのである。なお、笠原十九司「現代史の扉 大山事件の真相 : 日本海軍の「謀略」の追及」(現代史料出版 2012年)は、大山事件は日本側による謀略事件だとしている。

それでも、2000年12月には、キャンプ・デービッドで、クリントンはパレスチナとイスラエルに対して和平の独自案を示した。パレスチナとイスラエルはともに留保付きで同意したものの、合意には至らなかった。

これが、米国、パレスチナ、イスラエルの3者が同じテーブルについた最後の機会となった。


(2)再びシャロンの登場

ア イスラエルによる弾圧の強化

2001年2月、イスラエルで選挙が行われ、リクードのシャロンが政権につくと、和平への道は完全に閉ざされたと多くの専門家が感じた。

パレスチナ側の抗議行動に対して、イスラエルは抗議行動に参加した市民ばかりか巻き込まれた市民まで、日常的に催涙弾、ゴム弾、実弾を打ち込み、傷害を負わせたり殺害したりしていた。このようなイスラエルのパレスチナへの抑圧は、世界的な批判を巻き起こしている。そればかりかシオニストのユダヤ人の中にさえ、このようなイスラエルによるパレスチナ人への抑圧に批判的な意見が出ている(※)

※ ダニエル・ソカッチ「イスラエル 人類史上最もやっかいな問題」(NHK出版 2023年)など


イ パレスチナ側の抵抗の激化

これに対し、パレスチナの側も抗議活動が激化させるとともに、武装勢力はイスラエル軍や市民に対する自爆攻撃を激化させた。これは、イスラエルの民間人を犠牲にするものであり、米国とイスラエルは、これをテロ行為として強く批判した。

もちろん、侵略国を攻撃の対象とする場合であっても、市民に対する攻撃は国際法違反であり許されることではない。しかし、イスラエルは侵略している側だということを忘れてはならない。イスラエルによる非武装の市民の殺害は、明らかな犯罪行為である。これに対するパレスチナの反撃そのものは正当なものと考えられる。国際法上(ジュネーブ条約第一追加議定書)においても「植民地支配及び外国による占領並びに人種差別体制に対して戦う武力紛争」は正当な権利行使と認められている。そして、圧倒的な戦力差があるパレスチナ側としては、武力による反撃を自爆攻撃に頼らざるを得ないのはやむを得ない面もあろう。

そもそも、テロとはいったい何だろうか(※)。仮に、テロを「政治目的のための無辜むこの市民の殺害」と定義するなら、イスラエルは米国と並んで世界最大のテロ国家になるだろう。圧倒的な戦力差があるイスラエルが、非武装のパレスチナ市民を虐殺し、しかもイスラエルは侵略者の側なのである。

※ イスラエルの側が市民を殺害する行為は「自衛」として認め、パレスチナの側が市民を殺害すると「テロ」として批判する考え方は、私の理解の域を超えている。そもそも、人類の歴史をふりかえってみても、民族解放の戦いとテロを区別することなど現実には不可能である。パレスチナの行動をテロと呼び、イスラエルの市民への攻撃を自衛戦争と呼ぶのは、三・一独立運動をテロと批判し、南京虐殺を自衛戦争と呼ぶようなものである。

イスラエルの側がパレスチナ市民への無差別攻撃(※1)を行っており、圧倒的な戦力差がある以上、自爆攻撃を行うにはそれなりの理由がある(※2)と考えるべきである。パレスチナの側をテロリストとして、交渉の相手側と認めないような対応は、和平への道を閉ざし、かえってテロの危険を増すことになろう。

※1 パレスチナの自爆攻撃で死亡したイスラエルの民間人は 700 人であり、これに対しイスラエルによる無差別攻撃で死亡したパレスチナの民間人は 2,200 人である。なお、死者数は、ダニエル・ソカッチ「イスラエル 人類史上最もやっかいな問題」(NHK出版 2023年)による。

※2 先述したように、ネタニヤフが所属するリクードの前身であるイルグンは、英国統治下において、英国市民を犠牲にするホテルの爆破攻撃を行っている。


ウ 分離壁の構築

分離壁

※ イメージ図(©photoAC)

シャロンは、これに対して西岸の再占領を強化するとともに、西岸に大きく食い込んだ場所に分離壁の建築を始める。

しかし、シャロンは、占領地をそのままにしておいたのでは、第二次インティファーダを終わらせることはできないのではないかと考えたようだ。2005 年に PLO のアッバスと協議を行い、インティファーダを集結させることを条件に、ガザからの入植者の撤退を約束したのである。


(3)ネタニヤフの3度目の登場

爆撃を受けた都市

※ イメージ図(©photoAC)

そして、シャロンの約束は守られたが、その後、シャロンは病に倒れることとなる(※)。そして、その後、イスラエルは、ガザの完全封鎖を行い、その自立を徹底的に妨害する行為に出た。しかも、入植地がなくなったこともあり、無差別爆撃を繰り返して行うようになったのである。

※ シャロンの後任のオルメルトは、第二次レバノン紛争で国民の支持を失った。2007 年にブッシュが、アッバスと共にアナポリスに招待し、2国家解決による和平合意の案を示したが成功しなかった。

この結果、イスラエルの下部機関のような役割をするファタハに幻滅していたこともあり、ガザではハマスが人々の支持を集めるようになる。そして、2006 年に欧米の支持を受けて自治政府の選挙が行われ、ハマスが勝利するのである。欧米は、自らの期待通りの結果がでないとみると、その選挙の結果を認めないと宣言した(※)

※ 高橋宗瑠「パレスチナ 続くイスラエルの不処罰と国連の無力」(現代思想 2024年2月号)は「欧米が世界樹で推進する「民主主義」は、仲間が当選したときにのみ有効のようである」と皮肉った。パレスチナの歴史を見る限り、「民主主義」ばかりでなく「人道主義」についても同様らしい。

2008年には、再びパレスチナの抗議活動が始まり、イスラエルは900人の非武装の市民を含む1,400人のパレスチナ人を殺害した。このとき、イスラエル側の死者は、民間人3名とイスラエル軍の兵士が 10 名である。

この後、ネタニヤフが政権を握ると、和平への道は完全に閉ざされた。ネタニヤフは、西岸への入植を進め、入植者による暴行、強姦、殺人が日常的に行われるようになり、パレスチナ人が抵抗すると逮捕・投獄を繰り返した。ガザは完全に封鎖して経済的な自立を妨げ、何かあるたびに無差別爆撃を繰り返すようになったのである。

ところが、国際社会は、イスラエルがガザを無差別爆撃したときだけは批判の声を上げるものの、西岸での日常的な暴行やガザの封鎖については忘れ去ってしまったのである。国際社会は、一部の人々を除いてガザや西岸で何が行われるかについて、ほとんど関心を持たなくなってしまった(※)のだ。

※ 日本の状況については、清田明宏「天井のない監獄 ガザの声を聞け」(2019年 集英社)、重信メイ「中東のゲットーから」(2003年 ウェイツ)など。


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ウクライナでの戦線が膠着したまま消耗戦が続いています。今、国際社会に求められるのは、ウクライナへの戦闘支援ではなく、和平の道を模索することです。その解決の道を探ります。

箜篌(古代東アジアの弦楽器)を扱う女性

ミャンマーと企業のリスク管理

日本企業は、ミャンマーと経済的なつながりを有するケースもあります。しかし、軍事政権による人権弾圧を非難しないことは、企業の存続に対するリスクとなっています。企業のミャンマーの軍事政権との向き合い方を考えます。

炎上して頭を抱える女性

人権感覚の欠如は企業のリスクとなる

インターネットが大きな影響力を持つ現代社会において、人権問題による炎上が企業のリスクとして無視できないものとなっています。企業として、また社員に対しても人権感覚を磨くことが重要であることを解説しています。




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