リスクアセスメントと判例




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労働災害についてのリスクアセスメントを行わずに、労働災害が発生するとどのような責任が発生するでしょうか。

本稿では、リスクアセスメントを行えば防止できたと思われる災害が発生した場合の民事賠償訴訟の判決を取り上げて解説します。

その判決を知ることによって、どこまでリスクアセスメントを行うべきかを考えます。




1 民事賠償訴訟とリスクアセスメント

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最終改訂:


(1)本稿で取り上げる2つの判例

本稿で取り上げる2つの判例は、化学物質による労働災害について民事賠償を請求された事件である。いずれも被告側(会社側)が敗訴している。

1つ目は慢性毒性に関するもので、2つ目はアクシデント性の酸欠に関するものである。やや古い判例ではあるが、リスクアセスメントの基本的な考え方や、それをどのように進めるべきかについて、今日においても事業者の参考になると思われるものである。

最初に基本的な事項を説明しておくが、労働災害が発生したときに、民事賠償訴訟で敗訴するのは、原則として過失がある場合に限られる(※)のである。そして、実務においては、過失とは、結果(労働災害)の発生を予見して、その結果を回避しなければならないにもかかわらずそうしないことを意味する。

※ 土地工作物責任などで例外はある

これを別な面から見ると、リスクアセスメントを行わないか、又は不適切に行うことこそが「過失」と言い得るのである。そして、本稿で取り上げる2つの判例は、結果を予見するために、どのような情報を収集すべきか、またリスクアセスメントの結果についてどのような対策をとるべきかについての重要な示唆を与えてくれるものである。


(2)判例からなにを学ぶのか

私は、研修会の講師として判例の説明をすることが多いのだが、ときどき事業者の方で、労災が起きた後の法律的なことは専門家(弁護士)に任せればよいのだから、自分たちが知る必要はないと仰られる方がおられる。だが、そのような考え方は間違いであると申し上げたい。事故が起きたときに損害賠償を請求されるようなことにならないようにするのは、事故が起きてからでは遅いのである。

このように仰られる事業者も、損害賠償の訴訟で負けるような事態になるようなことは避けなければならないということには同意されると思う。しかし、それは、事故が起きた後で優秀な弁護士を雇えばよいといようなことではないのである。優秀な弁護士とは、本来なら負けるような訴訟に勝つ弁護士のことではない。勝てるべき訴訟で負けないのが優秀な弁護士なのである。負けるべき裁判については、より有利な落としどころを見つけて、依頼人と相手側をそこへ誘導することが、優秀な弁護士の腕の見せどころなのだと思った方がよい。負けるような訴訟については、負けると判断して依頼人に和解を勧めることもまた優秀な弁護士の仕事なのである。

では、訴訟で敗訴したり、不利な条件で和解するようなことになったりしないためにはどのようにすればよいのか? この質問に答えるのは簡単である。訴えられたら負けるような事故を起こさなければよいのである。もちろん、「言うは易い」ということではあるが・・・。

ある意味で、敗訴した判例というのは、他の企業が苦労して残してくれた貴重な財産なのである。そこから学んで、同じ轍を踏まないようにすること。言い換えれば、訴訟で負けるような事故を起こさないようにすること。これこそが判例を学ぶ理由なのである。


2 第一の判例(6価クロム事件)

(1)事件の経緯

最初に取り上げる判例は、いわゆる6価クロム事件に関するものである。この事件は、大々的に報道されたので、ある程度の年齢の方はご記憶の方も多いと思う。「鼻中隔せん孔」という普通に生活していれば聞いたこともなかったような言葉を、子供でも知ることになったあの事件である。

何が起きたのかを、昭和50年の第75回国会におけるN社T参考人の発言から見てみよう。

  • クロム化合物製造現場における鼻炎とか鼻中隔せん孔の発生につきましては相当、以前からわかっていたことでありまして、昭和32年には国立公衆衛生院に依頼して、この点についての調査をいたした・・・
  • 当時、当社を含めて一般産業界の環境改善技術が未熟で水準が低かったために、思うように効果を上げることができず、時間が経過してまいった・・・
  • 昭和20年代より、いわゆるコットレルによる集じん装置があったものを、昭和30年代には約3倍の能力を有するものに交換いたしております。そのほか各工程ごとに集じん機の設置あるいは自動遠心分離機の設置、ろ過工程の改善、密閉式コンベアの採用、浸出工程の自動化など・・・。
  • 昭和45年より肺がんによる死亡者が出始めてまいりまして、昭和49年に至る5年間に8名を数えるに至りました。

※ 昭和50年の第75回国会議事録。引用者において、一部を抽出して箇条書きとした。

つまり、6価クロムの有害性については会社としても判っていたが、環境改善技術が未熟で有効な対策はとれないまま時間が過ぎてしまったと言っているのである。ポイントはここである。そして、30年代に入って様々な対策をとったが、結果的に45年頃から肺がんによる死者が出始めたのだ。


(2)東京地裁の判断

これについて、昭和56年9月28日の東京地裁判決は次のように述べる。

  • ① 被告会社が労働基準法等取締法規に違反して有害業務を行わせたからといって、直ちに民事上の故意責任を構成するものではなく、逆に、労働省の諸規則、通達に定める規制(労働時間等)を遵守していたからといって、民事上違法性がないとはいえない

※ 昭和56年9月28日東京地裁判決より。引用者において一部を抽出し、箇条書きとした。

①の前半で故意責任があるわけではないといっているのは、原告側が会社側の故意責任を問うたからそれについて判断したわけである。故意があるというためには、たんに結果を認識していただけでは足りず、認容していたことが必要である。しかし、労働災害の場合、通常は結果(事故)を認容している事業者はいないだろう。いずれにせよ、労働基準法(昭和47年以前は労働安全法ではなく、労働基準法が安全衛生についても規制していた)に違反していることを認識し認容していたとしても、それだけで労働災害の発生まで認容していたということにはならないと言っているのである。

それよりも、重要なのは後半である。なお、ここで「違法性」という用語を用いているが、法律用語の「違法性」とは、法律的な価値判断において「悪いこと」を意味する。何かの条文に違反しているということではない。通常、民事賠償を請求できるのは、請求される側に「違法性」があることが必要な場合が多い。民法の不法行為責任も原則として被告側に「違法性」がないと、損害賠償を請求できないのである。

さて、ここでは労働基準法(現在では労働安全衛生法)や通達を遵守していたからと言って、それだけで違法性がないとはいえないと言っている。つまり、法律を守っていればよいというわけではないというのである。

では、どうすればよいのか。

  • ② 民法709条にいう過失の本質的な内容は、違法な結果の発生を防止すべき注意義務に違反することであると解されるが、(中略)結果発生を認識している場合は、結果回避義務の履行の有無を検討し、その不履行が肯定されれば結果回避義務違反として過失が認められる。

※ 昭和56年9月28日東京地裁判決より。引用者において一部を抽出し、箇条書きとした。

ここでは、結果の発生を予測していたのであれば、その結果を回避する義務があるのだと言っている。さらに、結果を回避する義務を果たしていなければ、民法の不法行為責任にいう「過失」があるという。そして、過失によって他人に違法に損害を負わせれば、損害賠償の責任の問題が発生するのである。

すなわち、実際に起こり得る労働災害の発生を予見して、その発生を回避する必要があるのであって、労働基準法の規定に従っていればよいというものではないのである。

なお、「結果の発生を認識している場合」といっても、たんなる無知や不注意で認識できなかったのであれば、「過失」は発生する。

  • ③ 化学企業が労働者を使用して有害な化学物質の製造・取扱いを開始し、これを継続する場合には、先ず、当該化学物質の人体への影響等その有害性について、内外の文献等によって調査・研究を行い、その毒性に対応して職場環境の整備等、労働者の生命・健康の保持に努めるべき義務を負うことはいうまでもない。

※ 昭和56年9月28日東京地裁判決より。引用者において一部を抽出し、箇条書きとした。

③では、化学企業が有害な化学物質の製造・取扱いを開始するのであれば、「当該化学物質の人体への影響等その有害性について、内外の文献等によって調査・研究を行」えというのである。そして、その上で必要なばく露提言措置をとる義務があると言っているのだ。お断りしておくが、ここにいう「内外」とは、もちろん企業の「内外」ではない、国の「内外」である。外国の文献も調べろと言っているのだ。

ここでは「化学企業」と言っているが、化学企業でなくとも一定規模以上の企業であれば同様な判断をされることは当然であろう。なお、化学企業以外の中小規模企業であったとしても、SDSの内容くらいは理解しておかなければならない。

  • ④ また、予見すべき毒性の内容は、肺がん等の発生という重篤な健康被害の発生が指摘されている事実で十分であって、個々の具体的症状の内容や発症機序、原因物質の特定、統計的なリスクの確認まで要するものではない。

※ 昭和56年9月28日東京地裁判決より。引用者において一部を抽出し、箇条書きとした。

④でいっているのは、内外の文献で「肺がん等の発生という重篤な健康被害の発生が指摘されている事実」があれば、それだけで対策をとれと言っているのである。「個々の具体的症状の内容や発症機序、原因物質の特定、統計的なリスクの確認」ができなければ対策をとらなくてもよいということにはならないのである。

そして、この場合について東京地方裁判所は次のように述べる。

  • ⑤ ドイツにおける肺がんの研究や労災補償の状況、及びこれらが時を移さずわが国に伝えられていた経緯からすると、遅くとも昭和13年頃には被告会社においてクロム酸塩の製造に従事する労働者に、肺がん等の重篤な疾病が発生する可能性について、予見することは極めて容易であった。

※ 昭和56年9月28日東京地裁判決より。引用者において一部を抽出し、箇条書きとした。

すなわち、「ドイツにおける肺がんの研究や労災補償の状況、及びこれらが時を移さずわが国に伝えられていた」のであるから、結果(クロム酸塩の製造に従事する労働者に、肺がん等の重篤な疾病が発生する可能性)を予見することはできたはずだというのである。クロムを労働者に扱わせるのであれば、その程度のことは調べておけというわけだ。

  • ⑥ 昭和10年従業員のAが鼻のがんで死亡したのであるから、クロムによる被害が鼻中隔穿孔等の典型症状に止まらず、呼吸器系のがん等に至る危険性があることについて、調査研究すべきことは至極当然である。
  • ⑦ この調査を尽くしていれば、工場を完全密閉化し、吸塵装置を設置し、従業員の配転や胸部X線撮影などにより肺がんの発生を防止できたことは明らかである。

※ 昭和56年9月28日東京地裁判決より。引用者において一部を抽出し、箇条書きとした。

そして、⑥では実際に従業員が鼻のがんで死亡したのだから、それがクロムによるものではないかと考えて、調査研究を行えというのである。

そして⑦では、その調査研究を行っていれば、その後の疾病の発生は防止することもできたはずだと結論付けた。結果を予測してそれを防止できるのにしなかったと、裁判所に認定されたわけである。

  • ⑧ また、十分な予防措置が完了するまでの間は、労働時間の短縮、早期の配転、労働者の健康管理、予防措置の励行等により、肺がん発生を防止すべき義務があった。

※ 昭和56年9月28日東京地裁判決より。引用者において一部を抽出し、箇条書きとした。

⑧では、技術的なばく露防止の措置ができるようになるまでであっても、他にばく露防止の方法はあったはずだといっている。すなわち、技術的にばく露防止ができなかったからやりませんでしたでは、通らないというのである。

  • ⑨ したがって、被告会社には、結果回避義務違反があったにもかかわらず、クロム暴露により肺がん等の重篤な疾患をはじめ、その他軽度な疾病が発生する危険性を予見し得たのに、その予見義務に違反して、肺がん等の発生が分かるまで適切な予防対策をとらず、その結果、前記被害を招いたのであるから、過失責任があることは明らかである。

※ 昭和56年9月28日東京地裁判決より。引用者において一部を抽出し、箇条書きとした。

そして、⑨では、疾病が発生することは分かったはずなのに、実際に発生するまで何もしなかったのだから「違法性」があるといっている。すなわち、ほぼ会社側の全面的な敗訴である。

ここでは、きわめて重要なことを言っている。事故が発生してから対策をとるのでは遅いと言っているのである。要は、発生を予想して、予防的に結果を回避しろというのである。


(3)では何をなすべきなのか

この判例から学ぶべきことは多い。少なくとも以下のようなことはしておくべきなのである。

ア 情報の収集

化学工業以外の企業にあっては、少なくともSDSを入手することは必要である。お断りしておくが、いわゆる通知対象物だけでは足りない。なぜなら、「労働省の諸規則、通達に定める規制(労働時間等)を遵守していたからといって、民事上違法性がないとはいえない」からである。少なくとも、明らかに有害性のないようなものを除き、SDSを入手するようにすべきである。

SDSが入手できなければ、諸外国の基本的なデータは収集するようにした方がよい。その場合、このサイトの「WEBで収集する化学物質情報」を活用してほしい。少なくとも、基本的な職業暴露限界くらいは入手しておいた方がよい。

また、情報を入手したら、少なくともその内容は理解すべきである。情報を収集しておきながら、その内容が理解できなかったから対策をとらなかったというのでは、違法性があると言われても仕方がない。毒性があるという明確な情報があるにもかかわらず、それが理解できなかったから、労働者がばく露しているのに、ばく露防止に必要な対策をとらなかったというのでは、弁解の余地はないのである。

イ リスクアセスメントの実施

そして、情報を収集してその意味を理解したら、必要なリスクアセスメントを実施することである。その際に、対象とするのは、吸入ばく露による慢性中毒のみならず、経皮ばく露や想定外の突発的なばく露による急性中毒についても行わなければならない。


3 第二の判例(突発定な事態による酸素欠乏症)

(1)事件の経緯

次の事件は、やや異常な状況で突発的に発生した酸欠事故である。まず、平成11年1月18日の千葉地方裁判所の判決文から、事実関係を見てみよう。それによると、この災害は以下の枠内のような経緯で発生したとされている。

その後、この事件は被災者の遺族によって民事賠償の訴訟を起こされた。

なお、この判決の内容等については、社団法人川越地区労働基準協会が作成したCD-ROM「安全配慮義務違反と企業の損害賠償責任」を参照させて頂いたことを付記しておく。以下、(3)までの本文中のカギ括弧内は、特に断らない限り同CD-ROMからの引用である。(川越地区労働基準協会は、現在は一般社団法人である。)

  • ① A工場の焼鈍炉は、堅型の焼鈍炉で、縦最大幅4.5m、横最大幅2.55m、高さ6.7mで、炉体の下半分が本件ピット内に入っている。
  • ② 本件ピットは、底面及び四方がコンクリート製で、縦3m、横1.5m、深さ3mで、事故当時、ピット内には排気設備等はなく、また、酸素を消費したり、空気を置換する可能性のあるものもなかった。
  • ③ 事故当時、焼鈍の金属材料の酸化防止のため、炉内に雰囲気ガスとしてアルゴンガスを充満する必要があった。
  • ④ 当初、誤って雰囲気ガスにアンモニアガスを充満していたため、ガスの置換を命じられたKはそれまで一人でガス置換やガス圧調整をしたことがなかったが、自分が造っていたメモを見ながらガス置換やガス圧の調整を行った(本来は、ガスの置換は、現場責任者の指導の下で行うこととされている)。Kは、その後で帰宅している。
  • ⑤ アルゴンガスが漏洩し、ピット内で作業していた労働者が酸素欠乏症で死亡した。

※ 社団法人川越地区労働基準協会「安全配慮義務違反と企業の損害賠償責任」より。引用者において一部を抽出し、箇条書きとした。

この事件は、焼鈍炉に誤ったガスを封入するというミスが契機となって発生した。このミスはKではなく夜勤者のPによるものだが、Pはミスに気付かずに帰宅している。ミスに気付いた係長がKにアルゴンガスに置換するよう指示したので、Kはガス置換やガス圧の調整を行って夕方に帰宅した。

CD-ROMの記述からは、なぜアルゴンガスが漏れたのかはよく分からないのだが、「本件事故当時、炉内圧力の上昇とオイル面の低下という相乗効果によって、炉内圧力とオイル圧とのバランスが崩れて油槽からアルゴンガスが漏れ」て、ピット内で作業をしていた被災者が酸欠によって死亡したものであるとされている。

なお、焼鈍炉は、駆け付けた別な作業者によって停止されたが、「ガス調整器の供給圧力計が通常の1.5㎏/c㎡を超えて1.9㎏/c㎡になっており、油槽のオイル面も下がっていて補給が必要な状態にまでなっているのを確認」したとされている。


(2)会社側の主張とその妥当性

CD-ROMによると、会社側は訴訟の中で次の枠内のような主張をした(か又は証言をした)とされている。

  • ① 本件ピットが、労働安全衛生法に基づく酸素欠乏症等防止規則において酸素欠乏危険場所とされておらず、また、従前、監督官署から指導勧告を受けたこともない。
  • ② 責任者のS取締役は、「アルゴンガスの危険性及び酸欠の可能性についてほとんど認識していなかった」「ピット上部が開放状態でガスが拡散し、下に沈殿するとは思っておらず、ピット内の酸素濃度の異常報告はなく酸欠事故の発生を予見できなかった。」と述べた。M次長も、「アルゴンガスは不燃性で無色無臭、空気より重いという程度」で、「ピット内に溜まると酸欠状態になるという認識はあった」とするものの、「日常業務の中でガス漏れがどの程度起こっているかについてはほとんど意識しなかった」と述べた。その他の責任者等もアルゴンガスに対する危険性を現実に認識していなかった。

※ 社団法人川越地区労働基準協会「安全配慮義務違反と企業の損害賠償責任」より。引用者において一部を抽出し、箇条書きとした。

要は、このような事態が起きるなどとは予見することは困難で、危険性についても認識していなかったのだから過失はないと主張したかったのであろう。あるいは原告側代理人の当事者尋問に対してたんに事実関係を証言しただけかもしれない。会社側の意図は明確ではないが、現実に死亡災害が発生した以上、まさかそのような事態を予測できたとは言えなかったであろうことは想像に難くはない。

これに対して、判決文は以下のように述べる。

  • ③ 酸欠の具体的危険性についての認識、予測が不十分であったと認められる
  • ④ 以上を総合して考えるに、本件事故は、アルゴンガスの危険性及びアルゴンガス漏れによる酸欠状態の危険性に対する認識が不十分であったため、現場従業員に危険性の周知がなされておらず、しかも、酸欠事故の防止のための教育指導、安全管理体制の確立、安全装置の設置、酸欠事故発生時の対応措置等がいずれも不十分であったために生じたものと認められ・・・

※ 社団法人川越地区労働基準協会「安全配慮義務違反と企業の損害賠償責任」より。引用者において一部を抽出し、箇条書きとした。

厳しい表現のようだが、こんなことも分からないようだから、事故が起きたのだという趣旨であろう。会社側の、まさかこんなことが起きるとは予見することができなかった(から自分たちに責任はない)という主張に対して、そんなことも予見できないようだから事故が起きたのだと、まさに切って捨てたわけである。


(3)裁判所の判断

さらに判決文は次のように述べる。

  • ⑤ 本件ピットの構造や、アルゴンガスを使用していることから、ピット内にアルゴンガス漏れが生じて滞留するおそれのあることは容易に予測し得ると考えられることからすれば、本件ピットが酸素欠乏危険場所に指定されていないことなどをもって、被告会社の責任が回避されるものとは到底できない
  • ⑥ 本件事故は、アルゴンガスの危険性及びアルゴンガス漏れによる酸欠状態の危険性に対する認識が不十分であったため、現場従業員に危険性の周知がなされておらず、しかも、酸欠事故の防止のための教育指導、安全管理体制の確立、安全装置の設置、酸欠事故発生時の対応措置等がいずれも不十分であったために生じた。
  • ⑦ 被告会社が、従業員を酸欠事故の発生する危険のある場所で作業させていることや、実際にB工場のピット内で酸欠事故が発生していることを考慮して、ガス圧の調整・管理に十分注意するとともに、計器類の確認や、酸素濃度の測定、2人作業体制等の教育指導、安全管理を徹底し、本件ピット内に排気装置や警報装置などの安全装置等を設置していれば、本件事故は発生しなかったものと考えられる。

※ 社団法人川越地区労働基準協会「安全配慮義務違反と企業の損害賠償責任」より。引用者において一部を抽出し、箇条書きとした。

⑤の前段では、アルゴンガスを用いる炉があって、その下にピットがあり、ピットの換気はされていないのだから、何かの理由でアルゴンガスが漏れれば、アルゴンガスは空気より重いのだからピット内に滞留することは分かりそうなものだというのである。確かに、素人が考えても、そのようなことは予想し得ることであろう。

また、それに引き続いて、「本件ピットが酸素欠乏危険場所に指定されていないことなどをもって、被告会社の責任が回避されるものとは到底できない」という。わざわざ、判決文がこのようにいっているのは、会社側が「労働安全衛生法に基づく酸素欠乏症等防止規則において酸素欠乏危険場所とされておらず、また、従前、監督官署から指導勧告を受けたこともない」から自分たちに責任はないという主張をしたからである。

しかし、問題は、法令で規制されているかどうかではなく、実際に事故が起きると予測できるかどうかなのである。判決文に「到底」などという言葉が入っているのは、おそらく裁判所が会社側の主張にいささかあきれていたからであろう。大切なのは、法律の条文ではなく、現実の状況なのだということを理解しなければならない。

さらに⑦をみると、実際にこの会社の他の工場で同種災害が発生していたらしいのである。だったら、他でも発生するおそれがあることは分かるはずであろう。それにもかかわらず対策をしていなかったのであるから、過失があると言われてもしかたがないであろう。

結論は、被告側のほぼ全面的な敗訴で、被災者の過失割合はゼロと判断されている。


(4)では何をなすべきなのか

最初から強調していることであるが、リスクアセスメントを確実に行っておくべきだったのである。リスクアセスメントの流れは次の図のようになる。以下、いくつかの項目について検討する。

リスクアセスメントの流れ

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ア 情報の収集

このような突発的な災害についてのリスクアセスメントを行うための情報の収集では、どのようなものを集めるべきだろうか。まず、化学物質に関するものである以上、SDSを入手することはもちろんである。もちろん、それだけでは足りない。突発的な事故のリスクアセスメントを行うには、まずシナリオの抽出を行わなければならないが、SDSをいくら眺めていてもシナリオの抽出などできないのである。

リスクアセスメントにおけるシナリオの抽出とは、事故の発生のストーリーを予測することである。この災害について言えば、「誤操作によって不活性ガスがピット内に漏れてピット内で作業をしている労働者が酸欠になる」というのがシナリオである。

この事故について事前にシナリオを抽出する(予測する)ためには、他の工場で発生した災害時例、すなわち「B工場のピット内の酸欠事故」があれば可能だったろう。すなわち、災害事例やヒヤリハット事例の収集が重要なことはいうまでもない。

しかし、災害事例がなければ、リスクアセスメントができないというのでは、予防的措置の名前が泣くだろう。災害事例以外の情報によってでも、この災害を予測しなければならない。判例もできたはずだと言っている。

集めるべき情報をまとめれば、以下のようになるだろうか。

項 目 内  容
不活性ガスのSDS
企業外の災害事例
企業内の災害事例
ヒヤリハット事例
焼鈍炉の状況に関する情報 不活性ガスの量、状態、漏えいの可能性、機械設備のリスクアセスメントの結果など
焼鈍炉の周囲の状況 下部にピットがあること、ピットの警報装置の設置状況、ピットの換気装置の状況
作業手順書 ピット内作業、不活性交換作業など
労働者の安全教育の状況 ピット内作業に関する教育、不活性ガスの危険性に関する教育
労働者の状況 労働者の経験など

イ シナリオの抽出

そして、本件のような突発的なばく露による急性中毒や酸素欠乏症等のリスクアセスメントには、シナリオ抽出が重要となる。

シナリオ抽出とは、どのような事態が起きれば事故が起きるかを予測することである。別な言葉で言えば、スイスチーズがどのように並ぶと穴が通じるかを予測するわけだ。

そして、次の段階のリスクの見積もりは、このシナリオについて行うわけである。つまりシナリオ抽出ができないと、リスクの見積もりなどやりようがないのである。つまり、このシナリオ抽出ができるかどうかがリスクアセスメントの成否を決めるのである。

最近、WEBや雑誌記事などで、労働安全衛生法の改正に対応してリスクアセスメントを行おうと呼びかけているものをよく見かける。そして、それらの中にはリスクアセスメントをどのように行うかについての概略を解説してあるものもある。それはそれで、大変に結構なことではあるのだが、本当にリスクアセスメントについて理解して書いているのだろうかと疑問に思えるものが少なくないのが実態である。

というのは、シナリオ抽出についてまったく触れていないものがかなりあるのだ。リスクアセスメントの「有害性の特定」から「リスクの見積もり」に話が進むときに、「有害性の特定」にはシナリオ抽出が含まれるということが書かれていないのである。おそらく、リスクアセスメントの経験がまったくなく、厚労省の指針だけを見て記事を書くからこうなるのである。これでは、一般の事業者は何をしてよいのかまったく判らないだろう。

なお、シナリオ抽出については、本サイトの「化学物質のリスクアセスメントとシナリオ抽出」や「化学物質RAの目的と考え方の基本」なども参考にして頂きたい。

ウ リスクの見積もり

さて、次の段階のリスクの見積もりであるが、これは簡単ではない。例えば、マトリクス法や加算法を用いるにしても、まずマトリクスや加算法のルールを決めなければならない。これは、汎用性のあるものを使用するか、各企業において定める必要がある。これについては、本サイトの「労働安全衛生活動の目的を見失うな」の「3 化学物質のリスクアセスメント」なども参照して頂きたい。

その上で、"結果の重大性"と"災害発生の可能性"を判断してリスクを見積もるのである。実は、"結果の重大性"はそれほど難しくはない。職場のあんぜんサイトのアルゴンガスのSDSには、単純窒息性があると記されている。そしてその単純窒息性のあるガスを大量に用い、その下には換気の行われていないピットがあり、そのピットでは日常的に業務が行われているのである。そしてシナリオで"大量の漏えい"を考えているのであるから、酸欠になる恐れがあり、結果は「死亡」ということになるだろう。

一方、"可能性の大きさ"の判定は、本件のようにミスが原因となって発生する事故の場合はきわめて難しい。必要な知識・経験のある者と現場を熟知している者が判断するしかないだろう。また、ある程度は割り切りで行うしかない。

エ 対策の検討

対策については、次図の優先順位によって検討する必要がある。ただ、この場合、不活性ガスの使用の中止、代替化は困難であろう。装置を改良して、誤操作によっても炉から不活性ガスが漏れないような措置を検討することは重要であるが、すぐに対応することは困難である。

リスクアセスメントの対策の優先順位

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であれば、警報機の設置、作業をする場合には常時換気を行うなどの対策がすぐに思いつくであろう。さらには作業者の教育、2人作業の徹底、危険性の表示などが補助的な手段として誰でも考えつくであろう。

判決文もまさにそのようなことをするべきだったと言っているのである。そして、リスクアセスメントの結果、リスクレベルが低いと判定されても、比較的安価にできるこのような措置は採るべきだったかもしれない。


4 最後に

リスクアセスメントといっても、要は、事故の発生について予見してその結果を回避するということなのである。なにか「特別な手法」をとらなければならないというものでもなければ、逆にこれさえしておけばよいという手法があるわけでもないのである。

確かに、いくつかのツールはあるが、慢性毒性に関するいくつかのツールを別にすれば、事故の発生の予見をすることができるわけではないし、また、その発生しうる事故の回避の方法を検討したりすることを代わりに行ってくれるわけではない。

リスクアセスメントのツールは便利なものではあるが、ツールは使いこなして目的を果たすためのものである。ツールを使うことが自己目的化するようなことがあってはならないのである。

基本的に、慢性毒性については、実際のばく露量が職業ばく露限界よりも十分に低いかどうかがきちんと確認できているかを判断しなければならない。経皮毒性や急性毒性、想定外のばく露などについては、ばく露の経路をすべて漏れのないように洗い出す(シナリオ抽出を行う)必要がある。

そのためには、専門的な知識や経験が必要なのである。コストをかけて知識を得たり、専門家を活用したりすることは事業者の責務なのである。

特別な知識やノウハウがなくても誰でも簡単にリスクアセスメントができる魔法の杖のようなツールはないということを理解して頂きたい。





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