六価クロム猫事件－不正確な報道が行われる問題

※　イメージ図（©photoAC）

2024年３月11日の夜遅く、奇妙なニュースが各報道機関のサイトに流れた。広島県福山市のメッキ工場で、メッキ液のタンクに猫が落ち、メッキ液を身体に付着させたまま工場外へ逃げ出したというのである^（※）。

※　NHK 2024年３月11日「“触れないで” 有害な六価クロム槽に落ちた猫 逃げたか 広島」、読売新聞 2024年３月11日「六価クロムの水槽に転落した猫が逃げる…広島県福山市「見つけても近寄らないで」」、朝日新聞 2024年３月12日「有害の六価クロム槽に落ちた猫、逃げる　広島県福山市「触らないで」」、中央日報 2024年３月14日「「触れれば失明も」…“１級発がん性物質”まみれのネコが行方不明、地域に不安広がる＝日本」など

報道では、メッキ液には「六価クロム」が含まれているとされている。しかし、六価クロムなどという個別物質があるわけではない。また、その濃度も不明である。従って、報道を頼りに、その有害性については調べることは不可能である。

すなわち、その「六価クロム」の具体的な物質は何なのか、またその濃度はどの程度だったのかが分からないため、猫に触れることの危険性の程度も分からないのである。さらに言えば、メッキ液に含まれる他の物質（常識的には硫酸が含まれている）についても触れられていない。

その一方で、有害性について、報道によってニュアンスの違いはあるものの、②酸性である、③触れると皮膚がただれる、④目に入ると失明するおそれがある、⑤吸い込むと呼吸器系の異常を引き起こすなどとされている。

そして、「見つけても絶対に触れないように」「専門家はネコが長く生存することは難しいとみている」などとも報道されており、これではいたずらに不安を煽あおっている結果になっている。

非情に有害性の高い、触れれば皮膚がただれるような化学物質を身体に付けた猫が、市街地をうろついているという印象を受けたとしても無理はないだろう。

このような不十分な情報の提供は、ネットにおける極端な情報の発信を呼び込みやすい。案の定、SNS には、フェイクとも思える情報があふれて、さらに人々の不安を煽あおり始めたのである。

クロムは単独で存在すれば、それは金属クロムであり、人体への有害性はほとんどないといってよい。

クロムの化合物には、三価と六価があるが、酸化数が＋３のものが三価クロム、＋６のものが六価クロムである。なお、自然に産出されるのは、ほとんどが三価クロムであり、毒性はそれほど強くない。

六価クロムには、三酸化クロム（CrO₃）、クロム酸（H₂CrO₄）、二クロム酸カリウム（K₂Cr₂O₇）などのクロム酸塩がある。

これらは一般に強い酸化作用があり、容易に吸収されて皮膚、眼、粘膜に腐食性の損傷を生じ、また、細胞毒性により惹起される肝不全や腎不全を引き起こすことも指摘されている。急性毒性もきわめて高く、経口摂取の三酸化クロムの致死量はクロム換算で成人では１～３ｇである^（※）。

Barceloux DG: Chromium. Clin Toxicol 1999; 37: 173-94.

しかし、常識的に考えても、猫の身体に付着した程度の量では、猫を撫でまわしたり、ペットが猫の死骸を食べたりしない限り、健康影響はほとんどないだろうと思われる。しかし、そのような報道はなされないのである。

また、慢性の有害性も高く、IARC は、人に対して発がん性があるグループ１に分類している。ただ、これにしても猫の身体に付着した程度では、がんの発生が問題になるようなものではない。

※　イメージ図（©photoAC）

メッキ液は、通常、クロム酸、硫酸、硝酸及び水からなる。なお、硫酸と硝酸はどちらか一方のみを含む場合もあり、むしろ硫酸のみを含む場合の方が多いかもしれない。

メッキ液に含まれるクロム酸、硫酸、硝酸の濃度は５～20％程度である。

従って、猫がメッキ液のタンクに落ちて全身にメッキ液を浴びたとすれば、その後、長時間生存できる可能性はほとんどないといってよい。すなわち、猫がうろついて化学物質をばら撒くような可能性は低いと言える。

ただし、子供が死骸を可哀そうだというので撫でまわしたり、放し飼いにしているペットが死骸を食べたりすれば、問題が起きる可能性はあるだろう。

結局、４月30日になって、メッキ工場から約260メートル南東の別の工場付近で、この可哀そうな猫の死骸が発見され^（※）た。猫の身体について、簡易な測定を行ってみたところ六価クロムが付着しているらしいと判明し、メッキ液のタンクに落ちて逃げ出した個体だろうと結論付けられた。

※　テレビ新広島 2024年４月30日「【速報】「六価クロム」槽に落ちたネコか　死骸を発見　広島・福山市」、RCC 2024年４月30日「有害物質「六価クロム」槽に落ちた猫　死骸見つかる　逃げた工場から約270メートルの地点で　触れたら失明のおそれ「触らないで」と注意を呼びかけていた」、中国新聞 2024年５月１日「六価クロムまみれで逃げ出した猫か　死骸見つかる　人の健康被害情報はなし　広島県福山市」など

猫の身体が、いつからそこにあったかは分からないものの、３週間前からあった可能性はあると報道されている。

※　イメージ図（©photoAC）

この事件の最大の問題点が、このメッキ工場のメッキ液の管理のずさんさにあることは言うまでもない。

朝日新聞^（※）によると、３月11日の朝７時頃に、出勤してきた職員がメッキ層から出たと思われる猫の足跡を発見し、防犯カメラで確認したところ前日（10日）の午後９時30分頃に工場の外へ出てゆく猫の姿が確認されたという。

※　朝日新聞 2024年３月11日「有害の六価クロム槽に落ちた猫、逃げる　広島県福山市「触らないで」」

このメッキ工場が市へ通報した時間は報道されていないが、NHK の WEB ニュースは 11 日 19 時 58 分に報道されている。隠さずに通報したこと自体は評価されるにせよ、猫が逃げた後、ほぼ 20 時間は近隣住民に知らされないままだったのである。逃げた猫を近隣住民や子供が触れる危険性もあったのであるから、あまりにも対応が遅いと言うべきである。

また、同記事によれば、「槽は縦２メートル、横 2.2 メートル、高さ 3.4 メートル。槽の上にシートをかぶせていたが、一部がめくれていた。槽には当時、めっき液が容量の７割程度入っていたという」とされている。すなわち六価クロムと硫酸の混じった溶液が 10 立法メートル入ったタンクが、布をかぶせられた状態で、誰でも触れる状態になっていたということである。

盗難のおそれや、野生動物が入り込む危険性を考えれば、かなりずさんな扱いと言うべきである。

※　イメージ図（©photoAC）

また、先述したように、報道内容から判断する限り、市が公表した内容はきわめて不完全なものと言わざるを得ない。「六価クロム」が付着した猫としかされていないが、先述したように六価クロムなどという物質は存在していない。これはクロムの酸化数が＋６である化合物の総称である。

なぜ、物質の名称を公表しなかったのか、きわめて疑問と言えよう。おそらく、メッキ工場側が製造上の秘密を盾に公表を拒んだのであろうが、このようなあいまいな公表では、いたずらに住民の不安を煽あおるばかりである。

さらに、メッキ液の成分や濃度を明らかにしていないのも大きな問題と言える。六価クロムといってもその濃度が分からなければ、事態の深刻さが分からないのである。六価クロムだけであれば、濃度が低ければ猫が長時間生きて、長距離を移動するおそれもあろう。

猫は３週間の間、発見されなかったのであるから、長距離を移動して広島市街に入った可能性もあるのだ。広島市内で死んで、子供が死体に触れたり、ペットが死体を食べたりする可能性もあるのだ。

メッキ液の成分を明らかにしておけば、猫が長時間生きられる可能性はほとんどないことは分かるだろう。なぜ、正確な情報を出そうとしないのか理解に苦しむのである。

また、六価クロム以外に、このメッキ液に有害な成分が含まれていなかったのかも、気になるところではある。

事件が起きたときの報道によれば、猫が有害な化学物質を浴びて、有害物質を体に着けたまま、市街地をうろついているというのである。このような報道は SNS にフェイクニュースを生み出して拡散されやすいということは誰にでも容易に想像がつく。

事実、SNS や個人のブログには、（危険だと警告するものがほとんどだったとはいえ）かなりの誤解を受けそうな情報が氾濫しはじめたのである。

このような事件が SNS で、誤情報や誤解を受けそうな情報を氾濫させている場合、それを抑える最大の効果があるのは、信頼できる機関が出す正確な情報である。ところが、筆者が知る限りでは、市は続報を出していないのである。

これでは、近隣住民の不安を大きく煽ることになってしまい、場合によっては日常生活に支障をきたすことさえ考えられよう。SNS の公式アカウントで、問題の大きさを正確に告げるだけでよいのだ。なぜ、この種の情報に続報を出さないのか理解に苦しむところである。

この事件の特徴は、専門家にとってはある意味で軽く見られがちな一方で、一般住民の耳目を集めやすく恐怖感を与えやすいことだった。

また、有害物質を身体に付着させた猫を子供が撫でまわしたり、ペットが猫の死骸を食べたりすれば、問題が起きる恐れはあるので、適切な情報提供と注意喚起が必要な事件でもあろう。

これに対して、市が、化学物質の量や正確な有害性に関する情報を公表したとは到底言えない。たんに、猫に触らないようにという注意事項と、化学物質の有害性のみを説明抜きで大きく公表した。このため、報道機関もややセンセーショナルな報道をしたことはやむを得ない点はあります。

要は、猫に触りさえしなければそれほどの問題はないにもかかわらず、非常に有害性の高い化学物質を身体に付着させた猫が市街地をうろついているという印象を、住民に与えてしまったのである。

このため、SNS にも不安を煽あおるような記事があふれ出し、近隣住民の不安を掻き立てるようなことになってしまった。このような状況では、一部の市民の生活に悪影響を与えた可能性もあるだろう。

しかも、市は正確な情報をネットに出して不安を抑えようという努力さえしなかった。これは、SNS に情報があふれる現代社会において、問題の多いことだといえよう。

地方自治体は、この種の事件ついて、不安を煽るような情報の収束について、もう少し対応を考えるべきである。