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私の青春=高校から修士を自力進学

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家庭教師

貧困家庭の子弟が大学へ自力で進学することは、極めて困難になっているようです。

私は、高度経済成長が終わりを告げた直後ですが、自力で高校から博士前期課程まで進学しました。そのときの体験談です。




1 はじめに

執筆日時:

最終修正:

本稿は、当初は「独力での大学進学は可能か=日本では、貧乏な若者は進学してはならないのか(※)」の前段として記したものである。ただ、WEBのコンテンツとしては、やや長くなりすぎていた。そこで、内容として独立したものだったため、別なコンテンツとしたものである。

※ 私と友人のコラボサイトである「平児の社会と政治を語る」のコンテンツである。なお、最初の執筆当時は、このサイトのコンテンツとして記していた。

執筆の動機などは、「独力での大学進学は可能か」の方を参照して頂きたい。


2 私自身の経験

(1)子供の頃のこと

私は父を早くに失った。父の記憶はない。私が物心ついたとき、母は、生活保護とカッターシャツへのネーム付けの内職で子供3人を育てていた。私は末っ子である。記憶があるときからそうだったから、それが当たり前だと思っていたし、とくに辛いなどとは思わなかったが、生活保護と内職で家族4人が生きていくということがどういうことだか分かるだろうか。

母の給料日の直前になると、食事はわずかなご飯と塩だけというようなことは普通のことだった。小学校のとき、先生が授業中に、昨日は食事で何を食べたかと子供たちに聞いたことがある。今なら人権問題になりかねないが、当時はそんなことでは問題にもならなかった。この教師にも、もちろん悪気はなかったのだろう。しかし、私は子供心にも塩だけだったなどとは答えたくなかった。それでとっさに嘘をついた。おかずには沢庵を食べましたと答えたのだ。そのとたんに教室はわっと笑いの渦につつまれた。そして先生が怒り出した。

私は、なぜそんなことになったのか分からず呆然としていた。そして、訳も分からずに、私はその先生にこっぴどく叱られることになった。大人になってから気づいたのだが、先生は、惣菜が沢庵だけだったなどとは想像もできず、私にからかわれたと思ったのだろう。

いささか本題から外れるが、また、別なある女性の先生があるとき「君たちはしっかり勉強しなさい。世の中は勉強しないようなものは肉体労働者になり、そうでない者はホワイトカラーとなってよい生活が送れるのだ」と言ったものである。もちろん、子供たちのためを思って言っているのである。しかし、私は、子供心にも強く反発した。口には出さなかったが、では、私の母は、努力しなかったから苦労しているとでもいうのか、と。

しかし、その先生たちは、私にとても貴重なことを伝えてくれたのだ。すなわち、ひとつには、先生などという「権威」をふりかざす人間の中にはくだらない人物もいるということである。もうひとつは、先生などと呼ばれる人間も間違ったことを言うことはあるのだから、たとえどれほど権威のある先生の言うことでも、納得するまでは自分で考えなければいけないし、自分の方が正しいと思うときは自分の考え方を堂々と主張すればよいということである。この2つを理解したことは、その後の私にとって、きわめて貴重な財産となっている。

最近は、こういうことを言う先生がいなくなったが、その分、子供たちがひ弱になったような気がする。昔の子供は、もっとしたたかだったように思う。どちらが、子供にとって幸せなのかまでは分からないが・・・。

もちろん、その小学校のすべての先生がこういう人だったわけではない。とても良い先生もいた。また、中学校時代の先生方には、今でも人生の師と思える尊敬できる素晴らしい方にもお遭いできた。さらに、その後の人生の中で、多くの尊敬に値する先生と呼ばれる方がたにお会いしてきた。このことは言っておかなければならない。

しかし、母は私たち3人の子供を愛してくれていたし、家族はけっこう楽しくやっていた。貧しくはあったが、総じてみれば、私は幸せな子供時代を過ごせたといっていいと思う。母は、楽天的で好奇心が強く、新しいもの好きだった。この性格は私にも伝わって、様々な困難な場面で私を助けてくれている。

ただ、金がなかったからだろうが、家にテレビはなかった。また、買いたくても、当時は生活保護を受けている場合、テレビの購入は認められなかった。このため、私は小学校の図書館から本を借りまくって読んでいた。私は、今でもテレビを見る習慣はないが、その意味では貧しさは、私に大変によい習慣を身につけてくれたのである。

また、高度経済成長という時代背景にも助けられていたと思う。高度経済成長の時期についての評価として、「物質的な豊かさを追い求めて心を忘れた」といわれることがあるが、少なくとも私たち家族はその豊かさのおこぼれにあずかって生きてこられたのだ。もし、高度経済成長がなかったら・・・。一家心中ということはあり得たと思う。池田勇人の所得倍増計画と当時の日本国民の経済努力に救われたのである。


(2)中学校を卒業=就職と通信制高校進学

私が何歳のころだったろうか、私は保育園に入り、母は内職を受けていた会社に正社員で務めることができた。また姉は定時制、兄は通信制の高校に進学して働きはじめ、私が中学を卒業する頃には生活保護は打ち切られていた。生活が徐々に改善されつつあったからである。

姉は私に、県内の最難関の高校に受かるなら授業料を出してやるから、進学しろといった。当時は生活保護を受けていたら子供が全日制の高校へ行くことは許されない雰囲気があったが、生活保護は打ち切られていたので、その問題もすでになくなっている。しかし、私は、そのために姉の婚期が遅れるようなことがあっては嫌だと思ったのでこの申し出を断ってしまった。当時は、今と違って婚期などというものを気にする社会風潮があったのだ。また、母が、かねてより進学については子供たち全員を同じ様に扱うと子供たちに宣言していたことも頭にあった。

だが、このとき全日制の高校に進学していたら、結果的に大学へは進学できなかっただろう。というのは、就職したからこそ、通信制高校の4年間で、ある程度の学資をためることができた面があるし、大学進学を考えている友人とも知り合えたからだ。その意味では、人生というものはどこに何があるか分からないものではある。

そんなわけで、中学校を卒業すると県外の某大手企業に就職し、通信制の高校に入ることにした。通信制の高校は、その企業が契約していたので、仕事との両立は制度的に保証されていた。

当時は、いわゆる集団就職はほとんど行われておらず、中卒の県外就職は大手企業への就職が普通だったように思う。大手企業が、現場の労働者として中卒者を採用していたのだ。ところが、高校への進学率が増えて、中卒者は完全な売り手市場となり、当時の中卒者は「金の卵」と呼ばれていた。私が卒業した年には一部のマスコミはダイヤモンドとまで呼んでおり、今では信じられないだろうが、中卒者が大手の企業に採用されることは難しくなかったのである。

とはいえ、大手企業が大量に中卒者を採用した時代も、ほぼ最終期に近づいていた。さらに進学率が進み、優秀な中卒者そのものがいなくなってきたからである。

さて、個室ではなかったが、住居も会社の寮に入ることができ、そこには食堂も共同風呂も備わっていた。当時は、社員食堂の定食が御馳走に思え、毎日風呂に入れることが単純に嬉しかったものである。寮か会社の食堂で食事をしている分には、食費は1日200円で済んだ。今でもはっきりと覚えているが、朝食65円、夕食95円で、昼食は会社の補助があって40円だった。

そして、何よりも、自立して生きていくことができるようになったことで、自分で自分の人生を決めることができるようになったのである。


(3)大学進学を決意

やがて、同じ年に入社した友人グループができた。なぜ、そんな話になったのかは全く覚えていないが、友人グループの中で大学進学の可能性が話題になったことがある。私は大学進学など無理だと思っていたので、最初はたんなる夢物語としか思わなかった。

しかし、グループの中に、はっきりと大学進学を考えている者がいて、彼が様々な可能性について調べていた。経済的な問題は新聞配達奨学生制度によってなんとかなるというのだ。たまたまだったのか類は友を呼んでいたのか、このグループには進学の夢をもっていた者が集まっていた。夢といっても、彼のように具体的に考えている者から、たんなる夢にすぎない者までさまざまなレベルはあり、私は「たんなる夢」の方に属していた。

ところが、もとから影響を受けやすいたちだったのか、母の楽天性が遺伝していたのか、大学進学もできるのではないかと思い始めたのだ。もちろん、問題は山積みである。そもそも通信制の高校の授業は受験用にはできていない。レベルも中学の復習程度で、決して高くはない。しかも働いている以上、勉強時間も自由にはならない。また、いくら若いとはいえ肉体労働で夜勤もある。疲れないわけではないのだ。さらに寮の部屋は4人部屋だった。とても勉強などできる雰囲気ではない。さらに大学4年間の授業料と生活費をどうするかという問題も当然にあった。

しかし、考えてみると、私には、この頃から、人生の重大事を簡単に決めてしまうという性格的な問題があったように思う。この当時読んだ本(題名は覚えていないが)の中に、次のような趣旨の一文があった。

行為を至難事というなかれ。勇気、高揚、機運の助けあり。決断こそ最至難事なり。

聖書か何かからの引用文だと思うが、原典が書かれておらず調べてみてもどうしても判らない。ところが、私はといえば、最至難事どころか、友人の影響を受けて、なんとかなるだろうと簡単に思い込んでしまったわけだ。

このグループで、大学進学を具体的に考える者が数人にまで増えたことも、決意をするひとつの材料だった。一人だとできないことでも、数人だと数の勢いでなんとかなる。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というわけだ。そう、当時の状況を客観的に見れば、確かに赤信号が光り輝いていた。

だが、イチかバチかに賭けてみようという気概もあった。どちらにころんだところで、自分の人生だ。だったら思うことをやってみようと。どうせ失敗したところで、最悪でも「見るべきほどのことは見つ」と考えればいい。そこまで覚悟すればこわいものなどない。失うものは大したものではないと思った。実は、けっこう大したものだったのかもしれないのだが・・・、やはり若かったのだ。


(4)親のこと

もちろん、大学に行くと決断することが難しい者もいた。彼は「俺には親がいるから無理だ」と言っていた。親に仕送りをする必要があったのである。その一方で、親のいない友人は、後に、大学へ提出する書類の保証人をどうするかで苦労することになる。当時は、何をするにも保証人を立てることが必要で、(意図的ではないにせよ)親がいない者を排除しかねないような仕組みができあがっていたのである。私には、そのような苦労はなかったという意味ではめぐまれていた。

また、私以外の者は進学することを親に告げたとき、(もちろん金を出してくれなどとは誰もいっていないのだが、)全員が親から猛烈な反対をされたのである。中には、子供が受験した学校に、不合格にしてくれと頼みにいった親さえいた。もちろん、子供のことが心配だったからだとは思う。

しかし、私の母は、私が進学するといったとき、一瞬は「どうしたらいいんだろう」と悩んだが、すぐに「お前の好きにすればいい」と言ってくれた。心配はしたはずである。私が大学にいる間、御茶断ちまでしたと、後に姉から聞いたことがある。そのときは泣けてきたものだ。しかし、母は、その心配を押さえてくれたのだ。


(5)大学受験と進学の準備

ア 受験の準備を始める

やはり若いということは強い。決めてしまうと、いろいろと無茶もできた。まず、会社に「資格試験の勉強をしたい」からといって寮の同室者を同じグループの者でまとめて欲しいと申し込んでみた。そして、(驚いたことに)これは後に実現した。

また、何人かで東京に出かけて行き、旺文社へ行って進路相談をしてもらったり、新聞社へ行って新聞配達奨学制度について尋ねたりもした。約束もせずにである!

しかも、東京へ行ったのは休みの日だった。つまり、当然のことながら、旺文社も休みである。ところが、たまたま忘れ物を会社へ取りに来た職員の方がおられた。休み明けからの出張で持ってゆくべきものを会社に置いたままにしていたのだそうだ。そして、その方に事情を話したところ、何時間も相談にのって頂いた。もちろん無料でだ!お名前も忘れてしまったが、今でも心から感謝しているし、旺文社という企業に対しては良いイメージを持っている。

新聞社も、数社まわった。ここでも、約束もなく突然やってきた図々しい若者グループに親切に対応して頂いた。このときに、新聞配達奨学生になること自体は簡単だとわかったことは大きな収穫だった。授業料等は全額出してくれるわけではなく、上限があることも分かった。だが、それは自分たちの稼ぎでなんとかなるだろう。こうなると通信制で働いていることのメリットを生かせばよいわけである。

イ 多くの人々の支援があった

また、すでに鬼籍に入ってしまわれた(※)が、当時の上司の方にも大変によくして頂いた。大学に合格して会社を辞めるとき、残っていた年休を最後にまとめてつけてくれたのだ。おそらく、会社ににらまれることを覚悟の上だったのではないかと思う。だから、私の退社日は4月の中頃で、学生時代と少しだけ重なっている。

※ ずっと、年賀状のやり取りをしていたが、ある年、突然、年賀状が届かず、数か月経ってから奥様から亡くなったとのお手紙を頂いた。

私は、確かに自力で大学へ行ったのではあるが、やはりこうした方々に支えられていたのだ。それに、友人グループにも支えられていた。彼ら友人グループがいなければ、できることではなかったと思う。

また、姉からは新しい布団一式をもらった。会社の寮から新聞販売店の寮へ移るとき、一時的に姉に荷物を預かってもらったのだが、そのとき布団が新しいものに入れ替わっていた。あまりにも汚いと思われたらしい。母からは、大学と修士課程の6年間、毎週必ず手紙をもらったが、その封筒には1,000円札が同封されていた。食うものがなかったときなど、これにもけっこう救われたものである。

やはり、こうした支援を受けられた私は幸運だったと思う。友人グループの中には、親の理解が得られないままの者もいたのだから。


(6)明治大学入学

さて、大学受験は8校に願書を出したが実際に受けたのは7校で、合格したのは明治大学工学部だけだった。1校受けなかったのは、試験日が明治大学より後で、明治大学の試験が終わったときに合格できたと確信したからだ。おかげで、入学金や初年度の授業料は、明治大学の分だけで済んだ(※)のだから、他が落ちたのは幸運だったとも言える。

※ 当時は、払い込んだ学費は返却されなかった。そのため、志望校の前に"すべり止め"を受けた場合、その入学金・授業料等の払込期限が志望校の合格発表の前だったりすると、"すべり止め"校に払い込んだ学費が無駄になったのである。

しかし、私学のしかも工学部である。授業料は、当然に新聞配達奨学生制度の貸付限度額よりも高かった。国公立を受けなかったのは、受験勉強の時間が十分にはないため、受験科目の多いところは無理だと思ったからだ。入学時点で持っていた学資は、4年間に学校へ払い込まなければならない金額の2分の1程度だった。

入学式が終わって、最初の登校日、大学の生田校舎では桜が満開だった。花吹雪の中を歩きながら、期待と不安と高揚と寂しさ(会社を辞めたからだ)の入り混じった気分に包まれていた。そのとき、頭中ではドリス・デイの"ケ・セラ・セラ"が鳴り響いていたものである。

しかし、大学へ入ってから、日本育英会(当時)の奨学金を申込み、貸費生(当時は無利子だった)になることができた。ただ、生活費としても、到底足りるような金額ではなかったが・・・。


(7)様々なアルバイト

ア 新聞配達奨学生をやめる

しかし、新聞配達奨学生の方は2年でやめてしまった(※)。勉強する時間も自由にならず、これでは何のために大学へ入ったか分からないと思ったからだ。生田校舎のある小田急線沿線には明治大学よりもレベルが高いとされている大学はなく、明治大学の学生には塾の講師の口がかなりあったこともある。

※ 初年度の貸費額の2分の1を返還する必要があったが、その後、卒業まで月5万円を遣っても卒業できるだけの金額を貯めていた。

それからは、その日暮らしの出たとこ勝負だった。4畳半一間のアパートで、金がないときは水道の水とパンの耳(※)をかじっての生活ではあったが、大学生活はけっこう楽しかったし、かなりの好成績で卒業までいきついた。

※ 当時はそんなものを売っていた店があった。1斤10円だった。犬用と銘打っていたが・・・

この頃、友人の家で見たテレビで皇族が犬を連れているのを見て、この犬、俺よりも良い物を食べてるんだろうなぁと思ったものである。たぶん、間違ってはいないだろう。

新聞配達奨学生をやめてからのバイトは、最初の頃は塾の講師を中心にしていた。小中高生に理科・数学を中心に受験勉強を教えるのは意外に楽しかったものである。

イ 病院でのバイトを紹介される

やがて、サークルの友人から夜のバイトを紹介された。夜のバイトというと、いささか怪しげなものを想像するかもしれないが、そうではない。警備員のバイトだ。最初は産婦人科の病院で、サークルの仲間で確保して、数人で交代でしていたバイトだった。病院側は、最初の先輩がたの勤務態度が良かったからか、その後はサークルの紹介だけでバイトを受けさせてくれるようになり、サークルでバイトの口を確保していたのだ。

夕方、学校が終わってから病院へ行き、掃除をしてから、病院側が提供してくれる食事を看護師さん(当時は看護婦さんといっていた)たちといっしょにとると、あとは電話番だけすれば、本を読んでいてもよく、12時には寝ても構わないことになっていた。ただし、在宅の妊婦さんが産気づいたなどの緊急の電話が夜中にあったときは、仮眠をとっている(もちろん別室でだ)看護師さんに伝えてから、電話をかけてきた患者さんのカルテを探して看護師さんに渡さなければならない。また、緊急のことなので雑用を頼まれることもあった。しかし、さして大変な作業ではなかった。もちろん、病院側には恩義があるし、サークルのメンバー全員のバイトにもかかっているので、手抜きをするようなことはしなかった。

ウ 学校の警備員のバイトに就く

次にしたのは学校の警備員である。当時はまだ木造校舎の小中学校が残っており、学生バイトを警備員として雇っていたのである。こちらは2人で交代だったので勤務日は病院よりも多かった。勤務時間は、平日は夕方から朝まで、週末は土曜の午後から月曜の朝までで、年末年始は12月28日の夕方1月4日の朝までが勤務時間だった。夕方から夜にかけて見回りの必要はあったし、職員室に誰もいなければ電話応対も必要だったが、本も読めたし、ここでも12時には寝てもかまわなかった。

今は、木造の小学校・中学校はなくなり、専門の警備会社が警備の仕事を受けるようになって、学生を雇うようなところはなくなってしまったが、当時は、こうしたアルバイトが、貧困家庭の学生の就学援助の役割を果たしていたものなのである。

もう少し前の先輩だと、横須賀の米軍基地で、ベトナムから送られてきた米軍兵士の遺体を洗うアルバイト(※)をしたとか、さらに以前の時代には、金がないときに血を売った学生がいたなどという噂を聞いたことがある。ただ、当事者本人から聞いたわけではなく、都市伝説のようなものだったのかもしれない。いずれにせよ、私の頃にはベトナム戦争は終結しており、血液は献血に頼るようになって売血は行われてはいなかった。

※ 余談だが、後に沖縄で勤務したとき、職場の職員から同じような話を聞いたことがある。


(8)修士課程へ進み、大手の企業へ就職

そんなこんなで、大学の卒業時にはまだいくらか貯金が残っていた。そこで、恩師(指導教授)とも相談して修士課程(正確には博士前期課程)まで進むことにした。

修士課程では、大学も入試のときの単純作業や、学生の実験の補助などのアルバイトをさせてくれた。これが、かなりよい収入になるのである。自力で進学するのは、高校、大学、大学院と進むにつれて楽になるようだ。

なんだかんだとあったが、学校の警備員の仕事は続けていたが、どうにか修士課程まで修了したのだから、確かに「なんとかなった」のではある。

そして、当時は就活などということもなく、大学側の紹介してくれた大手のメーカーにすんなり就職することができた。


(9)労働省へ転職

受け取った合格通知

受け取った合格通知書

 ただ、考えることがあって、就職した4年目に、当時、国家公務員上級職と呼ばれていた試験(電子・通信)を受けた。一回で合格したのはともかくとして、自分でも驚いたのだが席次(成績順)が1番になっていた。

そして、縁あって労働省(現厚生労働省)に採用されて、転職したのである。

母に、労働省に転職を決めたと話したとき、母が言っていた。労働省に入ったら、社会的に強い者のためではなく、まじめに働いている労働者や社会の底辺にいる者のためにこそ働けと。

しかし、私が労働省に入省した1か月後に母は永眠した。あのときの母の言葉は、その後、私が労働省(及び厚生労働省)で働くときの、基本であった。母の最期の遺志を私は労働省で少しでも果たすことができただろうか。


3 最後に

私が大学生だった当時、日本の経済力と社会情勢には、大学に自力で行きたいという若者の夢をかなえるだけの、力強さとおおらかさと容認力と、ある意味でのいいかげんさを許す社会風潮があった。

大学へ入った年、市民税を払うのが大変だったので、高校時代に住んでいた市の市長あてに手紙を書いたことがある。そうしたら、なんと、市民税を一部まけてやるという担当者の返事が来た。なにか特別な証明書を出した覚えもない。どんな法律に基づいて減額されたのかもまったく分からない。当時は、こうしたけっこういいかげんなことでも許される雰囲気があり、そのおかげで助かるという面があったのだ。

ただ、当時の日本で大学を自力で卒業できたということが、いくつかの幸運な偶然が重なったせいに過ぎなかったのか、それとも誰でも努力さえすればかなえられる「必然」だったのかは、私にも分からない。

だから、もしこの文章を読んでいるあなたが、定通制高校の方で、自力で大学進学をしようかどうかを迷っているとしても、あなたに大学進学を勧めたりはしない。なぜなら、それを決めることができるのはあなただけなのだし、他人が無責任に勧めることができるほどあまいことではないのだから。


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