化学物質による障害発生の予見可能性




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裁判のイメージ

※ イメージ図(©photoAC)

2015 年(平成 27 年)も押し詰まった 12 月、福井県の化学工場においてオルト―トルイジンによる膀胱がんが多発していたことが判明しました。その後の厚労省による調査の結果、同種災害が他にも見つかり、大きな社会問題となったところです。

本件については、被災者の3名が企業に対して民事賠償請求訴訟を起こしました。会社は争い、本件は防止することが困難なケースで会社には責任はないと主張しました。

これに対し、福井地裁は、原告の(一部)勝訴の判決を下しました(※)。被告会社が、本件災害を防止できたにもかかわらず、それを過失によって防止しなかったとしたのです。すなわち、本件は適切に情報を収集してリスクアセスメントを実施していれば防止できた災害だったのです。

※ 令和03年05月11日福井地裁判決。本判決は、原告、被告ともに控訴せず確定した。判決文全文が職業がんをなくす患者と家族の会のブログに掲載されている。

なお、最高裁判所の裁判例検索には本判決は搭載されていない。先例としての価値はないと考えられたのであろう。すなわち、被告の主張は法的にも価値のあるものではなかったのである。逆に言えば、被告は敗訴して当然の主張しかしなかったのだ。このことは、被告の労働衛生対策への意識が低かったことを強く推測させるといえよう。

本稿では、この判決に示された原告の主張、被告の主張及び裁判所の判断から、化学物質を取扱う事業者が、災害を起こさないために行うべきことをさぐります。




1 本件の特徴

執筆日時:

最終改訂:

(1)訴えの概要

判決のイメージ

※ イメージ図(©photoAC)

福井地判令和03年05月11日三星化成工業事件は、化学物質による職業性疾病(膀胱がん)に罹患したとする労働者が会社を訴えて(一部)勝訴した事案である。

判決文によると、「被告の従業員として勤務していた原告らが、被告の経営する工場で稼働していたところ、同工場で使用されていた薬剤に曝露し、その結果、勝脱がんを発症したと主張して被告に対し、雇用契約上の安全配慮義務違反(債務不履行)に基づき、損害賠償金(中略)の支払を求めた事案である」とされている。

災害の調査について厚生労働省が公表した「オルト-トルイジンに対する今後の対応」においては、「事業場では、20 年近くにわたり有機溶剤に関して労働者の尿中代謝物測定を実施するとともに作業環境測定を実施しており、それらの結果から、当時は有機溶剤に関し、呼吸器からのばく露(経気道ばく露)を含めたばく露レベルが高かったことが推察された」などとされている。


(2)災害当時判明していた有害性

判決を下す裁判官

※ イメージ図(©photoAC)

この化学物質はオルト―トルイジンで、判決文にも、災害があった時点で「発がん性について本件薬品は、アゾ系及び硫化系染料等の合成原料として用いられており、国際がん研究機関が平成 24 年にグループ1(ヒトに対する発がん性の十分な証拠がある)に、日本産業衛生学会が平成28年に第1群(ヒトに対して発がん性がある)に指定している」物質であるとされている。

災害が発覚した直後の厚生労働省の報道発表「芳香族アミンによる健康障害の防止対策について関係業界に要請しました」の別添資料「平成 27 年 12 月 18 日基安発 1218 第1号」においても、「オルト-トルイジンは膀胱がんを引き起こすと指摘されている」と明記されている。

芳香族アミンによる尿路系がんはどんな労働衛生のテキストにも載っているような典型的な職業がんである。筆者は、当時、厚労省の化学物質対策課に所属していたが、これはすでに過去のものとなった職業病と誰もが考えており、このような災害が現代において発生するということに驚いたというのが当時の課内の雰囲気であったと筆者は記憶している。


2 事件の概要

判決によると、事件の概要は以下のようなものである。

福井工場では、本件薬品を原料として使用し、他の化学物質と反応させることにより、染料・顔料の中間体(AAOT) を製造していた。

福井工場では、昭和63年11月頃から平成27年12月まで、本件薬品を製品製造の原料として用いていた。福井工場には、第1反応工場・第1乾燥工場・第2反応工場・第2乾燥工場・第3反応工場があるところ、いずれの工場でも本件薬品が使用されることがあった。

原告らは、それぞれ以下のとおり勝脱がんを発症した(以下、原告らの膀胱がん発症について「本件事故」という。)。なお、原告らの発症した膀胱がんが、結果として福井工場で使用されていた本件薬品の曝露によって発症したこと自体は当事者間に争いがない。

 民事損害賠償請求訴訟においては、当事者間に争いがないことは真実であるとして取り扱われる(引用者注)。

※ 資料出所:「福井地判令和03年05月11日三星化成工業事件」(引用者において一部を抽出している。)

なお、災害発覚の直後に行われた厚労省(独立行政法人労働者健康安全機構労働安全衛生総合研究所)の調査によると、被害者がオルト―トルイジンにばく露した経緯は次のようなものである。

〇 過去の取扱状況について関係者に聞き取りした結果、オルトートルイジンを含有する有機溶剤でゴム手袋を洗浄し繰り返し使用することは多くの労働者が行っていたこと、夏場は半袖の化学防護性のない一般的な服装で作業していたこと、作業の過程でオルト-トルイジンを含有する有機溶剤で作業着が濡れることがしばしばあったこと、作業着が濡れた直後にシャワー等で体を洗い流さなかったこと、一部の作業について直接手指でオルトートルイジンに触れていた等、オルトートルイジンに皮膚接触する機会があったものと推察した。

  また、事業場では、20 年近くにわたり有機溶剤に関して労働者の尿中代謝物測定を実施するとともに作業環境測定を実施しており、それらの結果から、当時は有機溶剤に関し、呼吸器からのばく露(経気道ばく露)を含めたばく露レベルが高かったことが推察された。このため、オルト-トルイジンについても、皮膚からのばく露だけでなく、経気道ばく露があったことが推察された。

〇 過去の作業を再現した調査に参加した多くの作業員について、就業前と就業後にそれぞれ尿中代謝物を検査した結果、オルトートルイジンが増加しており、ゴム手袋に付着していたオルトートルイジンの量と就業前後の労働者の尿中のオルトートルイジンの増加量に関連が見られた。

〇 作業に使用したゴム手袋をオルトートルイジンを含む有機溶剤で洗浄し、再度使用することを繰り返し行ったため、内側がオルトートルイジンに汚染されたゴム手袋を通じオルトートルイジンに皮膚接触し、長期間にわたり労働者の皮膚から吸収(経皮ばく露)していたことが示唆された。

 この最後の項目は、災害発覚直後の調査において多くの労働者が証言していたものである。しかし、民事賠償請求で訴えられた後は、会社は、一貫してこのことを否定するようになった。これは、後の有識者による調査の際の聞き取り調査においても、会社側が調査対象として許可した作業者は会社主張と同じ証言をしている(引用者注)。

※ 資料出所:厚生労働省「オルト-トルイジンに対する今後の対応」中の「4 独立行政法人労働者健康安全機構労働安全衛生総合研究所による福井県の化学工場における膀胱がん発症に係る調査結果の概要」より(引用者において一部を抽出している。)


3 当事者の主張と裁判所の判断

民事訴訟の判決文は、当事者の主張として原告及び被告の主張が記され、それに対する裁判所の判断が記されるという形式をとる。

この判決文に記された被告の主張を読むと、被告が職場の安全対策について、きわめて特殊な考え方をしていたことが示唆される。

本災害が発生した原因には、被告会社の安全対策に対する特殊な考え方が背景にあったのではないかと思われるのである。そこで、本判決文に示された当事者の主張とその問題点を見てゆこう。


(1)安全配慮義務の内容について

さて、労働災害に関する民事賠償請求訴訟においては、安園配慮義務の内容を特定しその履行がなかったことは原告側が証明しなければならない。本件の場合、安全配慮義務の内容は原告、被告双方が次のように主張した。


ア 原告の主張

【原告の主張】

使用者は、労働者に対して、労働者が労務提供のため設置する場所、設備もしくは器具等を使用し又は使用者の指示の下に労務を提供する過程において、労働者の生命及び身体等を危険から保護するよう配慮すべき義務(安全配慮義務)を負う。また、化学工場は、化学反応の過程を利用して各種の生産を行うものであり、その過程において多種多量の危険物を原料や触媒として使用することから、使用者としては、常に最高の知識と技術を用いて労働者の取扱物質に危険物質混入の有無及び動植物や人体に対する影響の如何につき調査研究を尽くしてその安全を確保するとともに、万一有害であることが判明し、あるいはまたその安全性に疑念を生じた場合には、直ちに操業を中止するなどして必要最大限の防止措置を講じ、とくに労働者の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有するものと解すべきである。

そして、生命、健康という被害法益の重大性に鑑みると、被告の予見義務の程度としては、安全性に疑念を抱かせる程度の抽象的な危倶で足り、健康障害の性質や程度、発症頻度まで具体的に認識することを要しないというべきである。

なお、被告は、本件で問題とされるべき予見の対象は、本件薬品の皮膚吸収による発がんの可能性であると主張するが、本件薬品には経皮的曝露による健康障害発生の可能性があり、被告がこれを知っていた以上予見可能性がなかったとはいえない。

※ 資料出所:「福井地判令和03年05月11日三星化成工業事件」(引用者において一部を抽出している。)

原告の最初の主張は、これまで多くの判例において示されていることで、とくに問題となるようなことではない。

2番目の主張は、例えば六価クロム事件に関する昭和56年9月28日東京地裁判決が「予見すべき毒性の内容は、肺がん等の発生という重篤な健康被害の発生が指摘されている事実で十分であって、個々の具体的症状の内容や発症機序、原因物質の特定、統計的なリスクの確認まで要するものではない」としていることを踏襲しているのである。なお、この考えは厚労省の化学物質等による危険性又は有害性等の調査等に関する指針でも採用されている。

言葉を換えれば、内外の文献で「がん等の発生という重篤な健康被害の発生が指摘されている事実」があれば、それだけで対策をとれと言っているのである。

なお、3番目の主張は、被告の主張に反論したものであるが、被告の主張そのものがあまり意味のあるものとは思えない。


イ 被告の主張

【被告の主張】

原告らの主張する高度の注意義務は、化学工場の排水が地域住民の生命・健康に危害を及ぼした公害の事案の裁判例において判示されたものであり、労働衛生上の安全配慮義務が問題となる本件において、公害における加害企業と同様の高度の結果予見義務が課されるものとはいえない。

また、本件で問題とされるべき予見の対象は、本件薬品の皮膚吸収による発がんの可能性である。

※ 資料出所:「福井地判令和03年05月11日三星化成工業事件」(引用者において一部を抽出している。)

ここで、被告の主張はかなり弱々しいものである。原告の主張のうち、なんとか反論できそうなところに反論しただけという印象を受ける。ここで被告の言っていることは、「公害対策のレベルよりも、労働災害の対策のレベルは低くてもよい」「経皮ばく露によってがんが発症することについての証明がない」という2点である。

しかし、過去の労働災害においても、事業者に原告が主張しているような結果予見義務があることは、多くの判例で示されている。また、発がん性があるということが指摘されていれば、経気道ばく露か経皮ばく露かなどということは、多くの判例は問題にしていないのである。おそらく主張した被告側代理人自身、あまり意味があるとは思っていなかっただろう(※)

※ 化学工業で発生した職業性疾病に関する判例で、多くの判例が企業に求められるとしている安全配慮義務の水準に、本件被告が遠く及んでいないことは、判決文全文から明らかである。


ウ 裁判所の判断

これに対して判決文は次のように述べる。

【裁判所の判断】

安全配慮義務は、ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者聞において、当該法律関係の付随的義務として当事者の一方又は双方が相手方に対して信義則上負う義務として一般的に認められるべきものである(最高裁判所昭和 50 年2月 25 日第三小法廷判決・民集 29 巻2号 143 頁参照)。

被告は、安全配慮義務の前提となる予見可能性について、具体的な疾患及び同疾患発症の具体的因果関係に対する認識が必要であるとして、本件において予見可能性があったというためには本件薬品の皮膚吸収による発がんの可能性の認識が必要であったのであり、被告にはこれがなかった旨主張しているが、生命・健康という被害法益の重大性に鑑み、化学物質による健康被害が発症し得る環境下において従業員を稼働させる使用者の予見可能性としては、安全性に疑念を抱かせる程度の抽象的な危倶であれば足り、必ずしも生命・健康に対する障害の性質、程度や発症頻度まで具体的に認識する必要はないと解される。被告の同主張は採用できない。

※ 資料出所:「福井地判令和03年05月11日三星化成工業事件」(引用者において一部を抽出している。)

すなわち、裁判所は、ほぼ原告の主張を認めたのである。これは、これまでの多くの判例の考え方を踏襲しており、当然の判断であろう。

ただ、判決文のこの後の記述には、必ずしもこれまでの多くの判例の考え方によっているとは言い難い部分もある。それは、この後の項で詳細に説明したい。


(2)本件薬品の発がん性に対する一般的な周知について

化学物質による職業性疾病の民事賠償請求訴訟で、原告側にとっていくつか問題となることがある。そのひとつは、被告側に安全配慮義務違反があったとされるためには、災害発生の原因となったばく露の時点において、被告が結果の発生を予見できたことが証明されなければならないということである。

本件では、障害発生の原因となったばく露のときに、オルト-トルイジンの有害性に関するどのような情報が、どのように公開されていたかが問題となる。言葉を換えれば、有害性に関する情報が、どれだけ容易に入手できたかが問題となるのだ。


ア 原告の主張

これについて、原告は次のように主張する。

【原告の主張】

本件薬品については、昭和 50 年代からその有害性(健康障害性)が認識されており、発がん性についても国内外で 1980 年代から 1990 年代までの間に認識されるに至っている。

とりわけ、平成 13 年には、日本産業衛生学会が、本件薬品の発がん性について第2群A(人間に対しておそらく発がん性がある物質、証拠がより十分である)に分類しているのであるから、同年時点には被告において本件薬品の発がん性を認識することができたというべきである。

※ 資料出所:「福井地判令和03年05月11日三星化成工業事件」(引用者において一部を抽出している。)

この原告の主張は、戦略的にみて失敗だったかもしれない。というのは、平成 13 年の日本産業衛生学会が、本件薬品の発がん性について第2群Aとした時点で「被告において本件薬品の発がん性を認識することができた」としているからである。

これでは、平成 13 年より前の時点のばく露については、被告には責任がないこととされてしまう(※)だろう。事実、判決ではこのことによって、賠償額の決定の際に原告に不利な判断をされてしまうのである。

※ 民事訴訟では、当事者の主張以上のことが認定されることはない。裁判所は、原告と被告の主張の間でしか結論を下すことは許されないのである。

原告は、被告が本件薬品の発がん性を認識することができたとする時点を、有害性(健康障害性)が認識された「昭和 50 年代から」と主張しておくべきであった。


イ 被告の主張とその問題点

【被告の主張】

原告らは、日本産業衛生学会の分類などをもって被告に予見可能性があったと主張しているが、同学会の発がん性分類情報はあくまで、ハザード情報(その物質ががんを引き起こす可能性があるか否かという意味での危険性情報)であって、リスク(曝露のレベルを考慮して、がんが発症する確率、すなわち「発がん性」を示すもの)に関する情報ではない。

また、本件薬品は、厚生労働省ががんを引き起こすおそれのある化学物質について指針を示した「化学物質による健康障害防止指針」におけるがん原性に係る指針対象物質(乙5)に指定されたこともない。

さらに、1997 年(平成9年)から 2008 年(平成 20 年)にかけて作成された評価書(乙 26 の1ないし6)の記載に鑑みれば、少なくとも作業空間の許容濃度を遵守して使用している環境下においては発がんのリスクは低いと考えられていた。

※ 資料出所:「福井地判令和03年05月11日三星化成工業事件」(引用者において一部を抽出している。)

一方、この被告側の主張は、かなりとんでもないものである。代理人があまり労働災害の訴訟に詳しくなかったのかもしれない(※)。以下、詳細に解説する。

※ 筆者が退職後に、厚労省の化学物質の問題に詳しいある職員と話す機会があったが、「あの被告代理人、ばかですよねえ」と言って笑っていた。筆者もまったく同意見である。


(ア)ハザードとリスク

まず、日本産業衛生学会の公表した有害性情報が、ハザード情報であってリスク情報でないというのは、信じがたいほどの低レベルの暴論である。有害性情報(ハザード情報)が公開されていれば、事業者としては自社の状況(ばく露の程度)と合わせて、結果発生を予見することは可能なのであるから何の意味もない主張である。

そもそも、化学物質による災害のリスクは、化学物質のハザード情報とそれぞれの企業におけるばく露の可能性等から評価するものである。リスクが公表されていないから、リスクは分からないというのでは、世の中のどのような企業もリスクを評価することはできないことになってしまう。

この主張は、たんに被告がリスクアセスメントについての基本的な知識に欠けることを証明しただけである。


(イ)国の指針の意味

また、「化学物質による健康障害防止指針」の対象となっていないという主張もまったく意味のないものである。「化学物質による健康障害防止指針」には、その対象物質以外のものには発がん性がないなどとは一言も書かれていない。この主張は、被告が化学物質についての基本的な認識に重大な欠陥があることを示している(※)だけである。

※ これでは、厚労省が「化学物質による健康障害防止指針」で公表している物質以外のものは、発がん性がないという前提で取り扱ってよいと、被告が考えていると認めたようなものである。語るに落ちたとはこのことか。

行政の指導の対象になっていようがいまいが、発がん性のあることが明らかとなっている物質を、労働者にばく露させて良いはずがないだろう。


(ウ)経気道ばく露経皮ばく露

最後の「少なくとも作業空間の許容濃度を遵守して使用している環境下においては発がんのリスクは低いと考えられていた」というのは、被告の「本件で問題とされるべき予見の対象は、本件薬品の皮膚吸収による発がんの可能性である」という主張と完全に矛盾している。

被告の言う評価書の指摘は、あくまでも経気道ばく露に関するものである。ここで、被告は化学物質のばく露防止に関する基本的な知識がないことを完全に露呈してしまった。


ウ 裁判所の判断

この被告の主張について、裁判所はさすがにあきれたのか答えてない(※)。あっさりと無視して次の項目で結論を出している。

※ しかし、ここは、明確に被告の主張に意味がないと明記しておくべきであった。


(3)被告における具体的な予見可能性

ア 原告の主張の失策

さて、ここで被告における具体的な予見可能性についての原告、被告双方の主張が出されるわけである。原告は、被告が災害を予見できた時点を、オルト―トルイジンの有害性が記載された SDS が発行された平成 13 年時点と主張するという失策をしてしまった。

【原告の主張】

被告が入手していた安全データシート(SDS)、化学物質安全性デー夕シート(MSDS)によれば、本件薬品が有害(メトヘモグロビン血症を引き起こす可能性がある)であり、皮膚から吸収されること、膀胱がん発症を含む発がんの可能性があることは平成 13 年までに発行された SDS に記載されており、被告は、それらの発行日から遠くない時期に入手して、本件薬品の皮膚吸収性及び発がん性を認識していた、あるいは予見できたというべきである。

以上の点からすれば、少なくとも平成 13 年当時には被告において本件薬品の経皮的被曝により発がんすることを予見できたというべきである。

※ 資料出所:「福井地判令和03年05月11日三星化成工業事件」(引用者において一部を抽出している。)

なぜ原告が被告の具体的な予見可能性について平成 13 年時点と主張したのかは分からない。もしかすると、平成 13 年時点としても勝訴できると考えたのかもしれない。しかし、先述したように損害賠償額の減額の理由とされてしまうのである。これについては後ほど説明する。


イ 被告の主張の問題点

(ア)被告の主張

一方、これに対する被告の主張も、かなり問題のあるものである。というより、まともな反論になっていない。

【被告の主張】

被告は、平成 28 年厚生労働省の報告書(甲1,2)を確認し、初めて本件薬品の経皮的曝露による膀胱がん発症の可能性があることを認識した。

また、本件薬品に関し、厚生労働省から業界団体を通じて届けられた通達等には平成 27 年 12 月まで特別な健康障害の防止対策に関する記載はなかった。これに対し、原告は、「基発第 565 号芳香族化合物のニトロ又はアミノ誘導体による疾病の認定基準について」(甲5)を提出しているが、同文書は、昭和 51 年8月4日に当時の労働省労働基準局長から各都道府県労働基準局長宛てに通達された内部文書であり、このような文書が業界団体に配信されることは通常ないのであるから、被告においてこれを平成 13 年当時認識することは困難であった。

もともと、事業者は、供給者から受け取る化学物質等安全データシート及び厚生労働省や業界団体からの通達等によって有害性評価書や有害性データベースの情報を入手することで足り、被告はこれを行っていたのであるから、被告に調査懈怠もない。

以上のとおり、被告には本件薬品の経皮的曝露の結果、被告従業員に膀胱がんが発症することの予見可能性はなかった。

※ 資料出所:「福井地判令和03年05月11日三星化成工業事件」(引用者において一部を抽出している。)

これについて、以下に問題点について検討してみよう。


(イ)被告の主張の問題点
① 被告がオルト―トルイジンの有害性を知った時期

被告は、事件発覚後の平成 28 年に、本件に対して厚生労働省が行った調査の報告書によって、「本件薬品の経皮的曝露による膀胱がん発症の可能性があることを認識した」と主張している。

これは、事件が起きるまで、被告は自社で用いている発がん性が明らかな物質について、有害性の調査をしなかったと宣言したわけである。まさに安全配慮義務を履行してこなかったと言ってのけたようなものである。

このようなことが、原告の訴えに対する反論になると考えているところが、すでに常軌を逸しているとしか言いようがない(※)。まさに被告会社は、労働者の安全を守ろうという気がなかったことをここでも露呈しているのだ。

※ 有害性を知っていて対策を採らなかったとも言えないだろうから、こう主張せざるを得なかったのかもしれない。


② 厚労省の通達を被告が知ることができないとしたこと

さらに、「本件薬品に関し、厚生労働省から業界団体を通じて届けられた通達等には平成 27 年 12 月まで特別な健康障害の防止対策に関する記載はなかった。これに対し、原告は、「基発第 565 号芳香族化合物のニトロ又はアミノ誘導体による疾病の認定基準について」(甲5)を提出しているが、同文書は、昭和 51 年8月4日に当時の労働省労働基準局長から各都道府県労働基準局長宛てに通達された内部文書であり、このような文書が業界団体に配信されることは通常ないのであるから、被告においてこれを平成 13 年当時認識することは困難であった」などと述べている。

行政からの通達がなければ、情報収集はできないと重ねて主張しているところは、自ら安全配慮義務を果たすための意思と能力がないと宣言したようなものであるが、とりあえず脇へおこう。問題は、「基発第 565 号芳香族化合物のニトロ又はアミノ誘導体による疾病の認定基準について」は、「部内限」の通達ではなく、公開されたものだということである。この種の通達は簡単に入手できるばかりか、関係する業界誌などでも紹介されることが多い。まともな化学企業であれば、それによって自社の労働衛生対策に問題がないかを検討するのに積極的に活用するものである。


③ 通達がなければ事業者は何もしなくてよいと主張したこと

また「事業者は、供給者から受け取る化学物質等安全データシート及び厚生労働省や業界団体からの通達等によって有害性評価書や有害性データベースの情報を入手することで足り、被告はこれを行っていたのであるから、被告に調査懈怠もない」と主張するに至っては、もはや怒りを通り越してあきれるしかない。

行政等からの通達がなければ、発がん性があると明確に分かっている物質を労働者にばく露させても、事業者には全く責任はない。だから、今回もそうしたのだと主張しているのである。このような考えだから、労働衛生の分野で国際的に有名になるような災害を引き起こすのだ。


(ウ)被告の主張をどのように評価するべきか

要するに、この企業には、安全配慮義務を履行することは事業主の責任であるという意識はまったくなかったのである。

もちろん、裁判における被告の主張が、そのまま被告の労働衛生対策の姿勢そのものだったとは言えないかもしれない。しかし、この裁判での被告の主張からは被告会社が、ほとんど労働災害を防止しようという気がなかったことが強く推測される(※)のである。

※ 筆者は、厚生労働省を退職した後で、ある私的な会合の場で、被告企業の安全担当者と個人的に話をしたことがある。彼らは、自らをいわれなき批判を受けている被害者と考えており、自らに責任がある加害者だとは思っていないという印象を受けた。

また、民事訴訟で何を主張するかは当事者の判断によるべきであり、そのことによって批判されるべきではないのかもしれない。しかし、それにしても筆者には、被告の主張には問題が大きすぎると感じられる。本件は、業務上過失致傷害罪の適用さえ考慮してよい事件ではないかとさえ思えるほどだ。

また、このような主張するくらいなら、真摯に原告と話し合って示談する方がよほどよかったであろう。


ウ 裁判所の判断

裁判所は、次のように被告の主張を一蹴した。

【裁判所の判断】

上記認定事実によれば、平成 13 年当時までに、被告が入手していた SDS には本件薬品の経皮的曝露による健康障害(高濃度曝露の場合死亡の可能性もあること等)についての記載があったこと、被告の福井工場副工場長において同工場に送られてきた SDS には目を通しており、本件薬品の発がん性も認識していたこと (前記(1)ア(イ))、同年以前から、原告らを含む被告従業員の尿中代謝物において本件薬品が含有されている有機溶剤が高濃度で検出されており、このことを被告も認識していたことが認められ(前記(1)エ(ウ))、そうとすれば,被告においても本件薬品の経皮的曝露により健康障害が生じ得ることを認識し得たというべきであるから、被告には遅くとも同年当時、安全性に疑念を抱かせる程度の抽象的な危倶(予見可能性)を有していたものと認めるのが相当である。

※ 資料出所:「福井地判令和03年05月11日三星化成工業事件」(引用者において一部を抽出している。)

ほぼ原告の主張をそのまま受け入れたといってよい。ただ、ここで原告の主張のまずさもあるが、被告が結果の発生を認識できた時点が平成 13 年とされてしまうのである。

そもそも、有害性に関する情報が一般に公開されて、不特定の者が読むことができるようになった時点で、その情報を実際に入手していたかどうかを問わず、結果の発生は予見できたとされるべきであり(※)被告が実際にSDSを読んだ時点としたのは、重大な問題があると言わざるを得ない。

※ 先述した東京地判昭和56年9月28日(日本化工クロム労災事件)は「化学企業が労働者を使用して有害な化学物質の製造・取扱いを開始し、これを継続する場合には、先ず、当該化学物質の人体への影響等その有害性について、内外の文献等によって調査・研究を行い、その毒性に対応して職場環境の整備等、労働者の生命・健康の保持に努めるべき義務を負うことはいうまでもない」としてる。また、大阪地判2006年12月25日(日本海員掖済会(化学物質過敏症)事件)なども、有害性に関する情報が公開された時点で結果発生が予見できるとしたと評価できる。

これでは、事業者が SDS 等を入手しなければ、予見可能性はないことになってしまう。予見可能性が生じたのは、有害性に関する情報が、内外で公表された時点とするべきであった。


(4)予見可能性ができた時点と損害賠償額の減額

なお、この後、判決文は、結果回避義務違反と原告らの損害及び因果関係に関する記述が続くが、これは本件固有のことであり、一般的に役に立つものではないので本稿では省略する。関心のある方は、判決文本文を参照してほしい。

ただ、裁判所が次のように述べて、安全配慮義務が生じた平成 13 年よりも前のばく露については被告に責任はないとして、損害賠償額の算定にあたっての判断材料としたことの問題点を指摘しておきたい。

【裁判所の判断】

被告に本件薬品の経皮的曝露を防止すべき安全配慮義務が発生した平成 13 年以前から相当量の経皮的曝露があり、これも原告らの膀胱がん発症に寄与していた可能性が認められる。

※ 資料出所:「福井地判令和03年05月11日三星化成工業事件」(引用者において一部を抽出している。)

これは、原告の主張のまずさも一因ではあるが、被告の安全に対する姿勢の低さを考慮すれば妥当とは思えない。


4 最後に

本判例については、山本(※)が次のように述べて、事前に防止することは可能であったと明言している。本件についてよくまとめられており、やや長いが引用させていただく。

※ 山本圭子「やさしい判例詳解 第89回 三星化学工業事件」(労働安全衛生広報 2024年3月1日号)

【こうすれば防げた】

  • Y 社において入手した SDS の内容を把握し、本件薬品の経皮的ばく露対策(全員防じん防毒マスク、ゴム製手袋、不浸透性の化学防護服の着用、ばく露時の洗浄、着替え等)をとっていれば防げた。
  • 作業工程等において、X らに本件薬品の経皮的ばく露が生じ得るものがある認識のもとで、Y 社が改善を図っていれば防げた。
  • Y 社は、以前よリ X らを令む従業員の尿中代謝物において本件薬品が会有されている有機溶剤が高濃度で検出されていたこどを知リ得たのであるから、このことから従業頁らの健康障害のリスクを認識して対策を採るべきであった。

 ここに Y とは被告会社であり、X とは原告(被災者)を指す(引用者注)。

※ 資料出所:山本圭子「やさしい判例詳解 第89回 三星化学工業事件」(労働安全衛生広報 2024年3月1日号)

まさに、山本が言うように本件は防げた災害なのである。

化学物質の自律的な管理は、このような災害=防止できるにもかかわらず、国の通達等がなければ何もする必要はないと判断してあえて防止しようとせず(※)に発生する災害=を防止しようという発想から生まれた制度である。

※ 本件の被告は、本稿でみたように裁判においてこのことを正当化し、実際にそうしたと主張しているのである。

本件被告の主張する「事業者は、供給者から受け取る化学物質等安全データシート及び厚生労働省や業界団体からの通達等によって有害性評価書や有害性データベースの情報を入手することで足り(る)」などという発想は、労働者の生命・健康を守るという思想とは相いれないものである。

労働者の生命・健康は守られなければならない。事業者は、化学物質の自律的な管理の趣旨に従い、その取扱う化学物質の有害性に関する情報を自ら収集し、的確にリスクアセスメントを行って、必要な対策をとる必要がある。


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化学物質を扱う子供たち

安衛法の経皮ばく露対策規制

安衛法の経皮ばく露防止のための規制とo-トルイジンへの規制について、それらが規制されたときの法改正の経緯から説き起こして解説します。

バツマークを示す女性

労働災害の損害を取り戻す方法

労働災害が起きたときに、労働者がその損害を回復するために取り得る公的制度、民事訴訟制度等の手立てについて解説しています。

裁判のイメージ

労働災害発生時の責任:民事賠償編

労働災害が発生したときの責任のうち民事賠償責任について説明しています。





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