民事訴訟と化学物質専門知識の必要性




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化学物質のイメージ

※ イメージ図(©photoAC)

厚労省は、自律的な化学物質管理をめざして2022年2月24日に改正安衛令等を公布し、同5月31日には改正安衛則等を公布しました。

この改正は、事業場における化学物質の管理を「法令依存型」から「自律的管理型」に転換することを志向しています。しかし、事業者は労働者に対して安全配慮義務を負っています。法改正を待つまでもなく、法令依存(遵守)型の安全衛生対策のみならず、自ら必要な安全衛生対策(自律的管理)を行わなければならないのです。

では、どのように自律的管理を行えばよいのでしょうか。それは、過去の民事訴訟の敗訴事例に学ぶことができます。敗訴した事業者は、安全配慮義務を果たしていなかったとして敗訴しています。そして、個々のケースで、どうすれば安全配慮義務を果たしたことになるのかは、判決文の中に現れています。

本稿では、敗訴事例に学びながら、どのように自律的な管理を行うべきかについて詳細に解説します。




1 はじめに

(1)制度の概要

執筆日時:

スーツを着た男女

※ イメージ図(©photoAC)

厚労省は、自律的な化学物質管理を志向して2022年2月24日に改正安衛令等を公布し、同5月31日には改正安衛則等を公布した。

この改正は、事業場における化学物質の管理を「法令依存型」から「自律的管理型」に転換することをめざしている。すなわち、政策の方向性としては厚生労働省の考えるリスク管理の方向が、「国が定める個別具体的な規制に頼る方式」から「国は管理基準のみを定め、その達成のための手段は事業者において適切に選択する方式」に変わっていくということである。

言葉を換えれば、今までは法令を守ってさえいれば良かったが、これからは化学物質管理を自ら決めなければならないということである。そして、決めるためには、専門知識が必要となり、また、様々な情報が必要になるということでもある。

そして、それを怠った場合には、労働災害が発生するおそれがあるということである。その場合、安全配慮義務を果たさなかったとして、多額の損害賠償を求められることもあり得るのだ。


(2)安衛法改正は事業者の責任のレベルを変更しない

ア 民事責任

労働災害と事業者の責任

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もちろん、安衛法令の改正は、ひとつの象徴的な事象にすぎない。法令が変わったから、自律的な化学物質管理を行わなければ事故が起きるというわけではない。今までも、安衛法令を遵守していても災害は発生していたのである。

そして、法律を守っていたからといって、必ずしも安全配慮義務を果たしたことにはならなかったのである。従って、法違反はなく安衛法違反で送検はされなかったが、民事賠償請求訴訟で敗訴するという事例は、これまでも数多く発している。

そのことは、安衛法改正によって変わるわけではない。


イ 刑事責任

女性警官と男性

※ イメージ図(©photoAC)

法令改正によって、化学物質関連の特別規則が廃止されれば、それらの規定によって処罰されることはなくなる。しかし、自律的な管理においても、その枠組みについては安衛法第 22 条(事業者の講ずべき措置等)、第 100 条(報告等)、第 103 条(書類の保存等)などの罰則付きの法令の根拠があるものがあり、それらに違反していれば処罰されることに変わりはないのである。

また、労働者や公衆が死傷すれば、業務上過失致死傷罪に問われ得ることも、これまでと変わりはない。

では、自律的な管理をどのレベルまで実施していれば、安全配慮義務を果たしたことになるのであろうか。これを知るために、本稿では第2章で、いくつかの典型的な判例を紹介する。

なお、「リスクアセスメントと判例」に挙げた2つの判例は、重複を避けるためにここでは取り上げないが、ぜひ参考にして頂きたい。。


(3)安衛法や通達に違反したときの民事上の効果

ア 安衛法の義務は、誰に対する義務なのか

安衛法には、様々な「義務」が定められている。義務という以上、それには義務を果たすべき相手がいるのである。その相手とは誰だと思われるだろうか。

例えば、安衛法第 66 条には、「事業者は労働者の健康診断をせよ」と書かれている。これは、だれに対する義務なのだろうか。

義務の性格からは労働者だと思えるかもしれない。だが、実は、これは一義的には誤りである。それが、労働者に対する義務であれば、労働者が「健康診断なんて受けたくないからやらなくていいよ」と言えば、それで終わりのはずである。

ところが、健康診断を実施しないと、労働基準監督官が出てきて「健康診断をしなさい」と言って是正勧告書を手交されることになる。

これは、実は、安衛法や労基法の義務規定は、一義的には、労働者に対する義務ではなく国に対する義務だからである。そのため、労働者が「しなくてもいい」と言っても、国の職員(※)が出てきて「国への義務を果たせ」と勧告するわけである。

※ 労働基準監督官は国家公民である。


イ では労働者に対する義務ではないのか

実は、労働基準法は、私法上の効果もあると明記している(直律効:第13条)。ところが、昭和47年に労働安全衛生法が労働基準法から分かれたときに、労働安全衛生法には直律効が定められなかったのである。

もし労働安全衛生法に私法上の効果があるとすれば、例えば事業者が法定の健康診断をしなかったために、疾病の発見が遅れて労働者に損害が発生したとすると、労働安全衛生法(と民法第 415 条)を直接の根拠として損害賠償の請求ができることとなる。しかし、安衛法の立法者は、そのような効果を望まなかったようである。

ただし、判例は、民法の一般条項を通して、安衛法には私法上の効果がある(従って安全配慮義務の内容となる)としている。

例えば、判例(東京地判平7年11月30日)は、安全衛生法の健康診断義務につき、安全配慮義務の内容となるとしているのである。

逆に、労働者が健康診断の受診を拒否すれば、損害賠償請求に当たって不利益に扱われたり(東京地判平3年3月22日)、企業からの処分の対象となる(最1小判平13年4月26日)こともあり得よう。


ウ 安衛法や通達と安全配慮義務との関係

これまで、判例は、安衛法の規定や労働災害防止を目的とした行政指導の通達等について、安全配慮義務の内容としている。

また、法的な理論構成は様々ではあるが、元請け企業が下請け企業の労働者を事実上、拘束しているような場合には、下請け企業の労働者に対しても安全配慮義務を認めるケースが多い。

表 法令、通達の規定等と私法上の効果
判決 論点 判決の内容
神戸地裁判決
平2年12月27日
安衛法の規定は安全配慮義務の内容となるか (有機則の)各規定は、いわゆる行政的な取締規定であって、右各規定の定める義務は、使用者の国に対する公法上の義務と解される。しかしながら、右各規定の究極的目的は労働者の安全と健康の確保にある(労安法一条参照。)と解するのが相当であるから、その規定する内容は、使用者の労働者に対する私法上の安全配慮義務の内容ともなり、その規準になると解するのが相当である。
広島地裁判決
平元年9月26日
労働災害防止を目的とする行政指導通達の規定は安全配慮義務の内容となるか (労働省の腰痛予防の)通達は、行政的な取締規定に関連するものではあるけれども、その内容が基本的に労働者の安全と健康の確保の点にあることに鑑みると、使用者の労働者に対する私法上の安全配慮義務の内容を定める基準となるものと解すべきである。
最高裁
第1小法廷判決
平3年4月11日
下請け企業の労働者に対する安全配慮義務は成立し得るか Yの管理する設備、工具等を用い、事実上Yの指揮、監督を受けて稼動し、その作業内容もYの従業員であるいわゆる本工とほとんど同じであったというのであり、このような事実関係の下においては、Yは下請企業の労働者との間に特別な社会的接触の関係に入ったもので、信義則上、右労働者に対し安全配慮義務を負う。

2 化学物質による労働災害関連の判例

(1)大阪地判2006年(平成18年)12月25日

ア 事件の概要

では、化学物質の自律的な管理をどこまで行えば、民事上の責任を果たしたことになるのか、いくつかの判例を紹介しよう。

最初は、大阪地判2006年(平成18年)12月25日(社団法人N会化学物質過敏症事件)である。この事件は、Yの設置する病院で看護師として勤務していたXが、検査器具の殺菌消毒剤としてグルタルアルデヒドを含有する洗浄液を使用していたため、これにばく露し、化学物質過敏症に患した等として、Yに損害賠償請求が認められた事件である。

事故の経緯は次のようなものである。

  • Xは平成6年4月1日にYにアルバイトの看護師として採用される。(平成7年3月から正職員)
  • 平成10年5月から午前は整形外科、午後は検査科の配属となる。
  • 検査科における看護師の具体的な業務内容は、透視室で検査を受ける患者の一般状態の観察補助や各種スコープ等の検査器具の洗浄消毒であった。
  • 検査科は、Yの1階レントゲン透視室にある。透視室は、原則として戸を開放することはできなかった。透視室に吸気排気口はあったが換気扇はない。
  • (Xは、洗浄)作業を白衣と同様の生地で作られた長袖の予防着を着用し、プラスチック製の手袋を2枚重ねて作業をしていた。
  • 化学物質過敏症の症状が出たため、その後は通常の紙マスクをしていた。
  • Yにおいては、看護師に対し、検査器具の使用方法、消毒方法等について説明を実施し、ゴム手袋を支給していたが、防護マスクや防護ゴーグルなどの防護用具着用の指示をしたことはなかった。
  • Xは、平成12年6月30日からグルタルアルデヒドを含有する洗浄液を使用しない外科に配属になり、同年11月1日から小児科の配属となった。

イ 大阪地裁の判断

これに対し、大阪地裁は次のように判断して、病院側の損害賠償義務を認めた(※)

※ なお、この判例の数ヶ月前に、大阪地裁が化学物質過敏症に関して、事業者の過失を否定した判決を出している。化学物質過敏症だからどうこうというわけではない。

  • 平成七年ころからグルタルアルデヒドの医療従事者に対する危険性が具体的に指摘されており、当時、医療従事者がグルタルアルデヒドの蒸気により眼、鼻などの刺激症状という副作用が生じることが認識されていた。
  • 確かに、当時グルタルアルデヒドの暴露により化学物質過敏症に罹患するとの認識がなかったことは前記のとおりであるが、現に原告がグルタルアルデヒドの吸入により刺激症状を起こした疑いが相当程度あったのであるから、原告に対しては防護マスクやゴーグルの着用を指示すべきであったということができ、何らの指示をしなかったことは使用者として適切さを欠き、安全配慮義務に違反する。
※ 「大阪地判平成 18 年 12 月 25 日」より。(引用者において箇条書きとし、一部に下線協調した。)

ここで「平成七年ころからグルタルアルデヒドの医療従事者に対する危険性が具体的に指摘されて」いた根拠としては。次のものが挙げられている(一部のみ)。

  • 平成3年7月:日本医事新報3507号の論文
  • 「グルタラールは,強力な抗菌作用を示す。したがって,毒性も強く,その取扱いには注意を要する」
  • 平成7年:手術医学の論文
  • 「グルタラールを使用している112名の医療従事者に対してアンケート」
  • 「眼・鼻刺激以外の副作用も高度に発展していた」
  • Yで平成11年1月まで使用されていたステリハイド(グルタラール製剤)についての製造業者がYに交付していた文書
  • 「グルタラールを取り扱う医療従事者を対象としたアンケート調査では,眼,鼻の刺激,頭痛,皮膚炎等の症状が報告されている」
  • 平成9年11月29日:第39回日本消化器内視鏡技師研究会の講演予報集
  • 「医療従事者に対し種々の副作用が生じ問題となっている」「消毒を確実に行いながらも,スタッフの健康を損なわない環境を確保していくことが必要である」
  • 平成10年11月21日:第41回日本消化器内視鏡技師研究会の講演予報集
  • 「内視鏡洗浄時はゴーグル,グルタルアルデヒド保護用のマスク,手袋,ガウンを着用して防護し,処置具の消毒に関してはグルタルアルデヒドを使用せず蒸気による熱処理を行う自動洗浄装置の導入等を考慮していきたい」
  • 平成11年:ACGIHは,グルタルアルデヒドのTLVの天井値を0.05ppmと定めた

すなわち、このような情報が公開されていたのであるから、Yはグルタルアルデヒドによる化学物質過敏症が予見できたはずだとしたのである。


ウ 考察

製造業者がYに交付した文書に有害性が記されていたことを重視した可能性はあるが、この判決によれば、化学物質を取り扱うためには、様々な学術論文や学会の予稿集まで把握しなければならないということになろう。

一般の事業者がこのような情報に接する機会があるだろうか? これは、かなり厳しい判断だと思われるかもしれない。しかし、有害な化学物質を労働者に扱わせる以上、公開されている情報を把握して対策を講じることは当然だと考えるべきなのである。

SDSの情報で十分だと思われるかもしれないが、SDSは公開されている二次情報を基にして作成されている。従って、その情報は最先端の知識からはかなり遅れるのである。現在の通知対象物である 674 種類の物質については、SDSにも十分な情報があるものが多い(※)。つまり、これらだけを使用するのであれば、SDSだけでも十分かもしれない。

※ 実は、グルタルアルデヒドは 674 物質のひとつである。モデルSDSは2002年(平成14年)に作製(2010年に改訂)されている。

しかし、2,900まで増加する物質について、正確に有害性の情報がSDSに記載されているとは思えないのである。このような特殊な化学物質をあえて用いるのであれば、常に最新の情報を入手するようにする必要があるだろう(※)

※ 少なくとも、5年に1回は改訂されることとなるSDSの内容は、正しく把握しなければならない。


(2)東京地八王子支判2005年(平成17年)3月16日

ア 事件の概要

次に東京地八王子支判2005年(平成17年)3月16日判決(※)を紹介しよう。

※ 本判例は、(社)川越地区労働基準協会「安全配慮義務違反と企業の損害賠償責任」のCD-ROMを参照している。一般の判例集には搭載されていないようである。

一般の判例集には、新しい法律上の判断のあったものや、法判断の変更されたものなど法律家にとって価値のあるものが搭載される。このCD-ROMは、安全衛生に役立つ観点から編纂されている。最新の判例が載っていないという難点はあるが、役に立つ資料である。

事故の経緯は次のようなものである。

    【裁判所が認定した事故の経緯】

  • Xは、平成2年10月Yに採用され、A工場技術課に配属され、航空機内装品の発煙・発熱・耐火・ガス分析試験などの燃焼試験業務に従事していた。
  • Xは、平成2年10月入社以来、平成7年7月頃まで、技術課試験室で、燃焼試験業務に従事した。
  • 試験室は、縦8m、横3.5m、高さ3mで、燃焼試験で試験片を燃焼させると、試験装置内で煙が発生する。各試験装置にはダクト等の排気装置があるほか、試験室内にも換気扇1個(40㎝)(平成6年頃には、小型換気扇(30㎝)が2個)設置されていた。
  • Xは、平成7年10月、事務室で倒れ、救急搬送された。
  • Xは、平成7年12月、製造課組立部門に配置転換となったが、初日に職場で咳き込んで倒れた。職場は有機溶剤やシリコンを修理に使用していたほか、隣に修理部門があってフロンガスを排出しており、工場1階ではゴミ箱の耐火試験を行っていた。
  • Xは平成8年6月に化学物質過敏症の診断を受ける。
  • Xは、平成9年2月より、私病扱いで休職を開始した(平成11年10月別件で解雇)

災害に至る事実関係は、原告と被告の間に争いがあるが、裁判所は次のように認定した。

【裁判所が認定した事故の経緯】

  • 被災者が入社した平成2年10月頃は燃焼試験が激増しており、朝から終業時まで連続し、あるいは、3日間続けて試験をすることもあった。残業時間は月30時間に及んだ。最も燃焼試験が多かったのは平成4年から5年にかけての時期で・・・納期までに試験が困難でも変更できなかった。
  • 発熱試験装置内には、下から上に向けて毎秒40リットルの空気が流れており、発熱試験中には、装置上部から蒸気機関車の煙突のように勢いよく煙が吹き出す。排気装置で排気しきれない煙は、排気装置の傘から試験室内にあふれてしまう。また、試験中3秒以上炎が消えた場合は試験が成立しないので、試験の間は監視窓から炎を確認し、消えた場合は再度着火しなければならない。試験直後に扉を開けるため、大量の煙が室内に放出される。
  • 燃焼試験が終って、多少の時間を経て試験装置の扉を開ける場合は煙の量は少ないが、試験終了直後に扉を開けると、煙が吹き出した。被災者らは、スケジュールどおりに試験を終らせるため、煙を排出する時間を短縮して試験片を交換した。その場合は、試験片1アイテムの燃焼試験後には天井にうっすらと煙がかかったようになり、試験を多く行うにつれ煙は濃くなった。そして、卵の腐ったような、硫黄が混じった感じの金属臭が発生して辺りに立ちこめた

すなわち、かなりの劣悪な環境にあったわけである。しかも、航空機材料が発火した場合の発煙の状況を調べるのであるから、そこに有害なものがあるのではないかという危惧の念は誰でも持ち得るものであろう。

原告(X)は、作業場所の排気の状況を改善しようとしたが、そもそも排気の基本設計がよくなくあまり改善されていない状態であった。

【裁判所が認定した有害物の排気の状況】

  • 平成2年当時から各試験装置の上に排気装置があったが、それらは試験室が密閉状態で空気が入ってこなかったため、十分に機能していなかった
  • 耐火試験装置には、ダクト等の排気装置が壁に直結し、煙等が壁外に排出されるようになっていたが、試験終了後、排気装置を作動させたまま数分おいて試験片を取り出すため装置を開けると、まだ煙が出てくる状態であった。
  • 発熱試験装置には、その上部にダクト等の排気装置が付いて屋根の上まで伸びていたが、装置上部の発煙部とダクトとの間隔が開いていたので、煙の拡散を防止し排気し易くするため、平成6年以降はダクト周りにビニールの垂れが付けられていた。
  • 発煙試験装置の上にはダクトがあったが、平成2年当時は、試験装置と直結されていなかった。
  • その後、Xらは、排気の機能を上げるため、ダクトの傘を取り試験装置と直結させた。また、
  • 平成7年頃、装置の扉の上に傘が取付けられ、これとダクトがつなげられた。
  • Xは、試験装置の排気が悪く、モーターが回っている音がすることから、詰まりや配管の外れなど、トラブルがないか点検や掃除をしたり、ベルトの交換をした。

にもかかわらず、ほとんど改善のための有効な工学的対策はとられていなかったといってよい。

【裁判所が認定した作業場の換気の状況】

  • 試験室周辺が製造工場だった頃は、入口のドアを開けることもあったが、平成3年に改装され、近くに会議室などができ、課長からドアを閉めるよう指示され、Xらはドアを開けて試験することをやめた。
  • 隣の試験室の窓を開けて空気を取り入れようとしたが、排気煙が開けた窓から入って来たり、季節により冷たい風や熱い風が入ってきて試験に支障が生ずるなど弊害があって、換気が十分できなかった。
  • Xらは換気の改善を課長等の上司に要望したが、しばらくは改善されなかった
  • 平成6年8月頃、試験室の吸気が不十分であったことから、試験室の隣の試験室を移転して予備室にした際、試験室に吸気用換気扇を4個追加して事務室から吸気するようにしたが、事務室も空調があるなど、外気の取り入れには限界があった
  • 平成6年11月には試験室に排気用換気扇2個を増設したが、目に見えた変化はなく、平成 12~13 年頃、燃焼試験の作業者から要請があり、発熱試験装置の裏の壁に吸気用の穴を付けた。

そればかりか、有効な保護具さえ支給されなかったのである。予算の関係で有効なマスクは支給されなかったというのであるから、利益優先で安全を無視した悪質なケースというべきであろう。

【裁判所が認定した保護具の状況】

  • 平成5年頃、カートリッジ式マスクを導入することとなった。Xらは青酸ガス、シアン化合物を防ぐには送気マスクでないと無理だと課長に伝えが、予算の関係で不可とされた
  • ガス分析試験の6項目全てを満たすフィルターはなく、Xらは酸性ガスに対応するフィルターを選び、平成5年10月頃それが導入された。
  • 平成6年の暮れ、原告らの要望で試験室に送気マスクが導入された。しかし、送気音がしたり、乾燥空気で油臭く、使用するに耐えられなかった。Xらは、発熱試験装置にコンプレッサーで供給する空気音がシューシューとうるさいので、耳の保護具の支給を要求し、ヘッドホン型の耳の保護具が支給されたが、送気マスクと重なり、適切に使用できなかった。イヤープラグ型の耳の保護具も支給されていたが、これを装着していると耳が痛くなった。

また、原告(X)が体調不良であることを会社は認識していながら、健康管理対策も適切に行われなかった。

【裁判所が認定した健康管理の状況】

  • Xは平成6年末にYに提出した自己申告書に「体調不良」と記載。平成6~7年当時の上司は、Xが時々咳をしていたので、健康状態が良くないのかなと思っていた。
  • Yは、毎年5月頃一般健康診断を実施し、Xも以前から一般健康診断で、内科外来などの受診を勧められていた。しかし、Yは、健康診断で現れていたXの視力低下や難聴について、調査や対応をしなかった
  • Xは、平成7年10月のある夕方、咳をして過呼吸に息を吸い込んで倒れ込み、救急車で、国立病院東京災害医療センターに運ばれた。
  • Yは、職場環境を変えるのが被災者のためであると判断し、平成7年 12 月、配転の希望を確かめることなく、製造課に異動させた。製造課は、有機溶剤、メチルエチルケトン、エポキシ系の接着剤などが使用され、有機溶剤の特殊健康診断を必要とする現場であり、硝子繊維の粉じんも発生する職場であった。
  • Xは、異動初日に係長に対し、有機溶剤や粉じんのある仕事は無理だと述べたが、係長から、ここで仕事をするか辞めるかのどちらかだと言われた。当日、休憩室で気が遠くなって倒れた。休憩室は、現場と遮断されておらず、空気環境は現場と同じであった。因みに、この休憩室は、平成14年頃、労基署から現場の空気を遮断するよう言われ、平成15年7月の時点で少しずつ改良しているところであった。

平成9年に行われた燃焼試験での排気ガス検査の結果は次のようなものであったとされている、

【燃焼試験による排気ガス試験の結果】

  • コールタール ⇒ 管理濃度0.2㎎/m3を超えており、基準値の3倍の場所もあった。
  • 粉じん量が許容量を超えていた。
  • 硫酸イオンが許容濃度及び ACGIH の基準値を超えていた。
  • 塩酸イオンは基準値以下であるが、やや高めであった。
  • CO、シアン化合物、臭化イオン、有機溶剤が発生しているが、これらはほとんど問題にならないレベルであった。

法律家の文書なので、労働衛生の立場からは不十分な資料と思えるが、長期にわたってばく露していれば、健康に影響がないとは言えないレベルであろう。この結果について裁判所は次のように評価したのである。

【裁判所による排気ガスの有害性についての評価】

  • 平成9年12月18日に試験室で行われた燃焼排気ガス測定結果では、管理濃度・許容範囲内ではあるが、相当量の、シアン化合物、フッ化水素、塩素イオン、フェノール、一酸化炭素が検出された。
  • 燃焼試験で発生していたと認められる化学物質及びガス分析試験の項目にある化学物質は、人の皮膚、目、鼻、口を刺激し、吸入されることによって、人に対し、倦怠感、疲労感頭重、頭痛、不眠、めまい、歩行の乱れ、不快感、吐き気、胃腸障害、まぶしさ、耳鳴り、発汗、気管支炎、気管支肺炎、結膜炎等を起こす危険性があるものと認められる

これをどう評価するかは、様々な意見もあるだろうが、許容濃度を超えていた物質がある以上、このように判断されてもやむを得ないであろう。


イ 裁判所の判断

裁判所は、以上の事実関係を認定した上で、被告(Y)は、次のすべての点について、安全配慮義務を果たしていないと認定した。

【裁判所が認定した、事業者側の安全配慮義務に違反した事項】

  • 試験装置の排気装置を正常に機能するようにする義務
  • 試験室の換気装置を完備する義務
  • 効果的な保護具を支給すべき義務
  • 安全に配慮した作業工程を作成、適切な作業管理をすべき義務
  • 安全な作業をするための従業員教育を行うべき義務
  • 健康診断により適切に健康管理をする義務

かなり教科書的に基本的なことを述べているが、これらの基本を守らない限り、安全配慮義務を果たしていないということである。

ここで留意するべきことは、これらが厚労省が進めようとしている「化学物質の自律的な管理」において実施するべきこと、そのものだということである。

そして、判決文は次のように言う。

【裁判所による最終的な判断】

  • Yは、平成2年当時から燃焼試験片の材質を認識していたものと認められる。そして、排気ガスには有毒な化学物質が複数含まれている可能性が高く、人が健康被害を生ずる可能性があることは、通常人であれば当然に認識し得るものであるから、平成2年時点で、Yには、Xに発症したと認められる症状等が発症し得ることの予見可能性があったことは明らかである
  • Yは、Xに職歴上症状発現に寄与する素因があり、Yに回避義務を課すのは損害の公平な分担という損害賠償法の目的からして妥当でないと主張するが、素因の有無は明らかではなく、仮にXに素因があったとしても、上記のとおりYには予見可能性が認められ、また、各安全配慮義務の履行は困難であるともいえないから、Yに回避義務を課すのは不当ではない。

ウ 考察

当然の結論であろう。排気ガスそのものが安衛法第57条等にいう「製剤その他の物」に該当するかどうかは、ややグレーではある。しかし、民事賠償請求においては、それが安衛法に違反するかどうかとは直接関係はないのである。

本件は、リスクアセスメントを行い、専門家に相談をするなどにより適切な対応をとっていれば、防げた事故だということは裁判所も認めている。

しかし、排気ガスは自律的な管理を目指す2022年の改正法令の枠組みによって対応が求められているかということになると、ややグレーであろう。

そもそも、排気ガスはSDSの対象になりようがない。他社から譲渡されるものではなく、他社に譲渡されるものでもないので、安衛法第57条の2によってSDSが作成されるとは考え難い。

このため、新しい法令の枠組みで対応できない典型的な事例と言えるだろう。法令の枠組みに従っているだけでは、安全配慮義務を果たしたことにならないことをこの事例は示している。事業者は、このような災害についても対応をとってゆく必要がある。


(3)大阪地判2004年(平成16年)3月22日

ア 事件の概要

次に、大阪地判2004年(平成16年)3月22日を紹介しよう。これは、労働者側にも過失があった例である。

気を付けなければならないことは、労働者側の過失は損害賠償額を減じる(過失相殺)理由とはなっても、安全配慮義務を否定する根拠とはならない(※)ということである。

※ 労働者側の過失が極端なものであれば、理論上は、安全配慮義務と被害の間の因果関係が否定されることはあり得るかもしれない。しかし、現実には、この因果関係が否定されることは、ほとんどないといってよい。

さて、事件の概要は次のようなものであった。

【裁判所が認定した災害の事実関係】

  • 被災者は、平成7年4月から、回収した廃油等を油、水及びスラッジ(沈殿物)に分離する業務や有機溶剤等を受け入れ業務に従事した。
  • 回収した有機溶剤を含む廃溶剤は、廃溶剤容器に入れられ、水、スラッジ等と分別した後、タンクに貯蔵される。タンクは、内径150㎝、高さ300㎝で、容量は5mである
  • 従業員がタンク内に入って行う清掃作業が平成4年ないし5年頃に1回行われたことがあるが、作業員が3人必要となる上、事前の換気や送気マスクの装着など手間がかかるところからその後は行われたことがない。
  • 平成 12 年 13 日朝、A次長は、被災者に、「タンクが詰まっているので、タンク内の廃溶剤をバキューム車を使って抜き取るよう」指示。作業手順を説明したり、送気マスク等を装着せずにタンク内に入ってはいけない旨の注意、指導は行わなかった
  • 被災者は、作業中、「くさい」とか「きつい」などと言いながら、ホースを持って何度かタンク内に出入りしていた。
  • 翌日朝、被災者が前日昼から所在不明となっていることが判明。タンク内で仰向けになって倒れているのが発見された(死亡)

ここでの最大の問題は、作業の指示を行う際に、手順等の説明を行っていないことである。事業者にしてみれば「言わなくても分かるだろう」ということだったのかもしれないし、そもそも知識がなかったのかもしれない。


イ 裁判所の判断

実は、被災者は化学物質を取り扱う経験があり、またいくつかの資格を有していた。一定の知識はあったはずなのである。そのため、裁判所は、やや事業者側に同情しているような判断をしている。

【裁判所の判断】

  • 本件事故発生に被告会社の安全配慮義務違反が認められるが、労働者の就業中の安全については、その責任を一方的に使用者に負わせることは相当ではなく、労働者自身にも、自らの作業を管理し、安全を確保すべき注意義務があるというべきである。
  • 被災者は、前処理班で5年以上にわたって有機溶剤2等ママを取り扱う業務に従事し、本件事故まで少なくとも4,5回はタンクの清掃作業に従事したことがあること、乙種第4類危険物取扱者免状や第一種衛生管理者の免許を取得して、有機溶剤の危険性や有毒性に関して一応の知識を有していたものと推認できることからすると、被災者は、送気マスク等を装着せずにタンク内へ立ち入れば、有機溶剤中毒により生命に危険が及ぶことを認識できたと考えられることから、被災者には過失があるといわざるを得ない。

ウ 考察

ここで、「安全については、その責任を一方的に使用者に負わせることは相当ではなく、労働者自身にも、自らの作業を管理し、安全を確保すべき注意義務がある」としているのは、いかにも労働の現実を知らないエリート裁判官らしい判断という評価も成り立つかもしれない(※)

※ 一般に、労働者は安全に対する知識も不足しているし、そもそも事業者側の指示を超えて安全対策をとることは極めて困難である。この裁判官の判断を現実の現場に適用して、労働災害防止の責任の一部は労働者にもあるのだから事業者の責任は軽減されるなどと言い出せば、労働災害の発生件数は数倍に膨れ上がるだろう。

しかし、労働者側に一定の知識があるはずだとした(※)にもかかわらず、結論として3割の過失相殺にとどめたことは評価されるべきであろう。

※ 現実には、実務経験の長さと安全の知識の有無は、それほど関係がないのが実際のところである。また、国家試験も、教科書的な知識だけで合格してしまうと「安全の知識」は身についても「安全の意識」は身につかない。また、更新制度がないため安全の知識も意識も、実務経験を積むにつれて薄れていってしまう。

逆に言えば、そのような現実を前提にして、労働者に経験や資格があるからと言って、安全な作業を行わせるための作業計画の作成や作業指示を怠ってはならないということである。

化学物質の自律的な管理においては、リスクアセスメントの実施がひとつの柱となる。リスクの算定に当たっては、労働者が不安全行動をとるということを前提とする必要がある。そのことをこの判例は教えてくれている。


(4)長野地諏訪支判1991年(平成3年)3月7日

ア 事件の概要

最後に長野地諏訪支判1991年(平成3年)3月7日を紹介しよう。これは、下請け企業の労働者の労働災害について、発注側の企業の不法行為責任を認めた例(※)である。

※ なお、下請企業は本件災害が誘因となって、提訴時には倒産していた。下請け企業が倒産したために、発注者側の企業に損害賠償請求をする例は多い。

これは、発注者側がその有利な立場から下請け企業の労働者に対して細かな支持を直接行っていることがその背景にある。なお、下請け企業の労働者に直接の指示を過度に行うことは、状況によっては職業安定法第 44 条に違反する行為となることは理解しておく必要がある。

事故の概要は、やや長くなるが、裁判所が認定した事実によると次のようなことであった。

【裁判所が認定した事故の概要】

  • K製作所は、昭和57年5月から同59年3月26日までの間、Yから腕時計針の印刷加工の発注を受け、その業務を従業員であった原告(X)らに従事させた。
  • この業務は、ノルマルヘキサンを主成分(97パーセント以上)とする有機溶剤(A-ベンジン)を使用していた。
  • Yは、K製作所に本件印刷業務を請け負わせるに当たり、昭和57年3月20日頃から同年4月末頃まで、Y会社工場において、主として外注担当者のMが同製作所のK部長ほか5名の従業員に対し、本件印刷業務の作業手順について研修指導した。
  • この研修の際、使用する有機溶剤の取扱いについて、火災防止や節約のための注意はなされたが、Yは、A-ベンジンが、強い毒性があるために、有機溶剤中毒予防規則によって、第二種有機溶剤に指定されているノルマルヘキサンを主成分とするものであることや、有毒性に対する対策の必要性について十分な認識を有しなかったため、Mも、有機溶剤の取扱い上の注意事項や人体に対する影響について指導しなかった。
  • Mは、本件印刷業務の発注後1か月間は毎日、その後は1週間に2日程度、日程管理及び品質管理の指導のためにK製作所を訪れていたが、A-ベンジンの取扱い等については指導しなかった。
  • YがK製作所に本件印刷業務を請け負わせるに当たり、同製作所の工場を本件印刷業務に適する作業環境に改善するよう助言指導したことはなく、ノルマルヘキサンによる中毒防止のための局所排気装置の設置や気積の確保の必要性について指導したこともなかった。
  • そのため、K製作所では、天井に換気扇を2台取り付けただけであった。
  • Yは、K製作所に対し、本件印刷業務に必要な機械器具、備品、治工具を無償で貸与し、A-ベンジンとインクを支給した。
  • (K製作所は、後に移転するが状況は変わらなかった)
  • K製作所は、本件印刷業務に使用する有機溶剤が人体に有害であって、第二種有機溶剤に指定されているノルマルヘキサンを主成分とすることを知らず、事業者としての措置を講ずべき義務についても全く認識していなかった。
  • そのため、局所排気装置を設置せず、作業場の気積は不足し、作業環境測定や特殊健康診断も実施していなかった。

イ 裁判所の判断

この状況において、裁判所は次のように判示して、被告企業(Y)の損害賠償責任を認めた。

【裁判所が認定した事故の概要】

  • Xらの本件疾病は、K製作所が局所排気装置を設置せず、気積を十分に確保しなかったなどのために発生したものである。
  • Yは、K製作所とは元請・下請の関係にあり、Yにおいて作業手順の研修を行い、発注後当初は毎日、その後も週1、2度は日程及び品質管理の指導に赴き、必要な機械器具等を無償で貸与し、必要な資材を提供して生産を管理し、一方、K製作所はノルマルヘキサンを使用する仕事の経験はなく、Yの指導に全て委ねてその従業員らが作業をしていたことを総合すると、YとK製作所とは実質的な使用関係にあったものと認めるのが相当である。
  • そして、ノルマルヘキサンに関する有機溶剤中毒予防規則の規定を遵守すべきことをK製作所に対して、指示ないし指導すべき注意義務があったものというべきである。
  • しかるに、Yは、ノルマルヘキサンの強い毒性について認識しないまま、K製作所に対して、指導しなかったのでのであって、Yのこの過失により、同製作所は、本件印刷業務に使用していた有機溶剤の毒性やこれに対する対策の必要性についての認識を欠き、局所排気装置を設置せず、必要な気積を確保しなかったため、Xらにノルマルヘキサンの吸引により多発性神経炎に罹患させたのであるから、Yは、民法第709条により、Xらが被った損害を賠償すべき義務があるといわざるを得ない。

ウ 考察

ここで民法第709条を挙げているが、これは民法上の不法行為による損害賠償責任である。

※ 安全配慮義務違反による損害賠償責任は民法第415条の債務不履行によって生じる。すなわち、安全配慮義務は契約関係によって生じる債務であり、発注者と下請け企業の労働者の間には契約関係はないので、不法行為責任を追及したのである。

なお、安全配慮義務そのものは、民法の第1条第2項又は労働契約法第5条によって生じる。

本件では、Yは実質的にKの労働者であるXらに作業の指示を行っており、しかもその化学物質の有害性はおろか、物質名さえ告げていなかったのであるから、判決の結論は妥当であるといえる。

なお、本件は、被告会社が労働者の所属企業であるK製作所に対してSDSを交付しなければならないケースであり、安衛法違反である。


3 最後に

女性事業者のイメージ

※ イメージ図(©photoAC)

これらの判例は、いずれも化学物質の自律的な管理をどのように行うべきかの考え方を、反面教師として教えてくれている。

2022年の安衛法令改正は、自律的な管理を目指すものではあるが、改正が想定する枠組みに形式的に従っているだけでは、ここに挙げた判例の災害のいくつかは防止することは困難である。

そもそも「自律的な管理」において、どうすれば安衛法違反にならないかを考えるとすれば、そのこと自体が「自律的な管理」に反することになる。

安衛法の「自律的な管理」の枠組みを守ることは重要である。しかし、それよりも大切なことは、化学物質の専門的な知識を得て(※)、最新の情報を入手・分析し、労働災害が起きないように管理することである。

※ 労働者に化学物質管理に関する知識を習得させることが重要である。そのためには、労働者の専門知識を正しく評価し、かつ活用して、適切に処遇しなければならない。それが、難しければ外部の専門家を利用すればよい。

繰り返すが、大切なことは「労働安全衛生対策」ではなく「労働災害防止対策」なのである。


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