※ イメージ図(©photoAC)
福島第一で発生した事故について、東京高裁は、東京電力の幹部に対して無罪判決を言い渡しました。
であれば、法律的な価値判断として、誰も刑事責任を問われるような過失を犯していない場合であっても、国土のかなりの面積を失いかねない事故を起こすリスクが、原子力発電所にはあるということになります。
国内の他の原子力発電所も、いつでも福島第一レベルの災害を引き起こし得るということが法的に認められたことに他なりません。では、原子力発電所をこのまま使い続けることは正しいことなのでしょうか。
また、東京高裁は、適切な対策をとるべきだったという、検事役の弁護士の主張を「後知恵」であると一蹴しました。そもそもリスク管理の考え方から、そのような判断は正しいものなのでしょうか。
東京高裁の判断の問題点について、我が国の国民と国土を守るためのリスク管理という立場から解説します。
- 1 東京高裁による東電幹部無罪判決
- (1)東京高等裁判所による無罪判決
- (2)なぜ無罪判決が出されたのか
- (3)東京高裁判決をどう評価するか
- 2 東京高裁判決が意味するもの
- (1)過失がなかったのであれば
- (2)本当に過失はなかったのか
- 3 最後に
1 東京高裁による東電幹部無罪判決
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(1)東京高等裁判所による無罪判決
※ イメージ図(©photoAC)
2023年1月18日、東京高裁は、福島第一原発事件の東電幹部の刑事責任を問う訴訟において、東京地裁判決による無罪判決を維持した。
これは、企業の責任者の刑事責任を問う過去の判例の動向から、十分に予測されたことではあった。裁判所の法律的な価値判断としては、無罪判決を出すべき事件なのであろう。
しかしながら、この無罪判決は、国家のリスク管理という観点からは、きわめて重大な問題を内包している。そのことに、裁判所は気づいているのだろうか。
(2)なぜ無罪判決が出されたのか
ア 「過失がなかった」とはどういう意味か
考えてみて欲しい。東京電力の最高責任者には刑事責任を問うべきほどの過失はなかったと、東京高裁は判断したのである。法律的な意味で「過失」があったとされるのは、「被害の発生という結果を予見して、それを回避しなかった」場合である。
逆から言えば、「過失はなかった」とは、「結果を予見することはできなかった」又は「結果を防止することはできなかった」ということを意味する。
しかし、福島第一原発事故の場合、結果を予見できれば、それを回避することは不可能ではない。極端なことを言えば、原発を撤去してしまえばよいのだ。あれほどの災害が起きると予見できれば、これは決してあり得ない選択ではないだろう。
そうだとすれば、過失がなかったというのは、この場合は、結果を予見できなかったということを意味する。言葉を換えれば、福島第一原子力発電所は、災害発生まで、誰にも災害を引き起こすことを予見することはできなかったと東京高裁が認めたのである。
イ 事前に対策をとることは困難だったのか
※ イメージ図(©photoAC)
この刑事裁判は、検察が不起訴と判断したのに対し、検察審査会によって起訴するべきとされたものである。そのため、罪を追求する役割は、検察官ではなく弁護士が担っている。
検察役の弁護士による「防潮堤の建設や、建屋などへの浸水を防ぐ対策をとるべきだった
」という主張に対して、裁判所は「後知恵」であるとして一蹴した(※)。
※ NHK NEWS WEB「強制起訴裁判 東京電力の旧経営陣3人 2審も無罪判決」(2023年1月18日)による。
だが、この裁判所の判断は、リスク管理という観点から正しいものだろうか。10 メートルを超える津波が来る可能性は、国の機関である地震調査研究推進本部が認めたものである。予想されていなかったわけではない。百歩譲って、科学的に確実な根拠ではなかったとしても、その可能性はゼロではなかったと言うべきであろう。
そして、福島第一は、自家発電装置と配電盤がすべて地下に設置されている構造である。10 メートルを超える津波が来れば、内部電源が失われることは、ごく普通の電気技術者であれば、誰の目にも明らなことである。
また、宮城県沖地震という大規模な地震が発生する可能性は、事故発生前の時点でも 100 パーセントだとされていた。大規模な地震が発生した場合、外部電源が失われる可能性があることは、子供にでもわかることである(※)。また、地震と津波が連動して同時に発生することも常識であろう。
※ そうでなければ福島第一原発に自家発電装置が設置してあったはずがない。しかし、現に、役には立たなかったとはいえ、自家発電装置はかなりの数が設置されていたのである。
一方、対策にかかる費用は、微々たるものなのだ。弁護士の主張する「防潮堤の建設や、建屋などへの浸水を防ぐ対策」など、数億(高くてもせいぜい数十億)の費用と1年足らずの工期で可能だっただろう。また、地下にあった発電機と配電盤とバッテリを上階に移設することや、480 ボルトの電源車を注文して高地に待機させておくだけでも内部電源は確保できたのである(※)。
※ 当サイトの「福島第一原発事故はなぜ起きたのか」を参照されたい。
これを後知恵というなら、どのような災害が発生したとしても、わが国のいかなる個人も責任を問われることはなくなるだろう。
(3)東京高裁判決をどう評価するか
東京高裁の無罪判決は妥当なものであろうか。確かに、現在までの判例の下における法律的な価値判断としては、東京高裁の判決そのものは妥当なものといえよう。
筆者(柳川)は、この判決を下した東京高裁の個々の裁判官に対して、法律的な価値判断において批判をするつもりはない。
しかしながら、福島第一事件の最高責任者に対する刑事責任を無罪とするような司法のあり方に対して、筆者は、疑問を感じるのである。
また、国民の安全と国家の持続的な発展という観点から、原子力発電所のリスク評価とその活用についての政策の決定を行うときに、東京高裁のような判断をすることはきわめて愚かな行為であると指摘しておきたい。
原子力発電所の危険性と利便性を、どのように考量するかについて、この判決の意味を次章で考えてみたい。
2 東京高裁判決が意味するもの
(1)過失がなかったのであれば
東京高裁による過失がなかったという判断が正しければ、先述したように、福島第一原発事故は東京電力という企業が必要な注意を払ったとしても予測ができなかったということになる。
東京高裁は、もちろん、東京電力の3人の幹部職員の個人の刑事責任の有無という観点からのみ、この裁判の検事役と被告側の主張立証を総合的に判断して無罪判決を出したものである。
だが、このことはきわめて重大な意味を持つことに、東京高裁の裁判官たちは気づいているだろうか。国の機関(地震調査研究推進本部)が指摘した災害のリスクを無視し、わずか数億程度の費用の支出を惜しんで、100 名近い人々の生命と国家の運営に危機を及ぼすような災害を引き起こしても刑事責任を問われないということが何を意味するかについてである。
これは、我が国の他の原子力発電所が、同様の事故を引き起こす可能性があることを公式に認めたようなものである。事故の発生の前に 100 %近い確率で起きると予想されていた宮城県沖地震と、それによって起きる可能性があると国の機関が指摘した津波への対応を、する必要がないというならそう考えるしかない。
その状況下で、我が国の原子力発電所の運手を認めることは、我が国の国民の安全と国家の持続可能な発展という観点から正しいことなのであろうか。筆者にはそうは思えないのだが、いかがなものであろうか。
(2)本当に過失はなかったのか
※ イメージ図(©photoAC)
東京高裁判決の意味を、リスク管理の観点から考察してみよう。
リスクアセスメントの基本は、発生する結果の重大さとその発生の確率からリスクの重大性判断するということにある。そして、それを防止するためのコストが、リスクの重大性を不合理なまでに上回らない限り、そのリスクが現実化することを防止する対策をとる必要があると判断することである。
10 メートルを超える津波の発生は、国の機関である地震調査研究推進本部がその可能性を指摘していた。そして、それが100 パーセントの確率で発生することが予想されていた宮城県沖地震と連動して発生すれば、全電源喪失が発生するおそれがあることは明らかであった。すなわち、全電源喪失の可能性はあったのである。
一方、結果的にはそれほどの災害にはならなかったものの、全電源喪失が起きれば、我が国の東北エリアが人の住めない地域となり、多数の国民が死傷するチェルノブイリ型の災害が発生するおそれさえあったのである(※)。
※ そうならなかったのは、奇跡的な偶然があったために他ならない。詳細は「福島第一原発事故を引き起こしたもの」を参照していただきたい。
その結果の重大性と、発生の悪率の大きさから判断すれば、災害発生前の時点における唯一の正しい結論は「対策をとる」ということであり、それ以外ではありえなかった。検事役の弁護士による「防潮堤の建設や、建屋などへの浸水を防ぐ対策をとるべきだった」という主張を「後知恵」とした東京高裁の判断は、リスク評価という観点からは、常軌を逸しているとしか言いようがない。
まして、東京電力の幹部たちは、リスクの評価を行うことを組織に対して指示するべき立場にありながら、それを逆に止めたのである。その責任は大きいと言わざるを得ない。
東京高裁(及び東京地裁)による無罪判決は、あまりにも国民の感覚から逸脱したものである。
3 最後に
東京高裁による無罪判決は、司法機関による判断としては、大勢の予測と一致していたものといえる。
しかしながら、多くの識者も指摘しているところではあるが、事前に10 メートルを超える津波の予測をすることができなかったという判断は、リスク管理という観点からは到底、理解できるものではない。
彼ら(被告人)は、災害発生の前の時点において、対策をとるという判断をするべきであったし、またそのような判断をするべき立場にあったのである。
それをしなかったのは、彼らの無能(※)によるとはいえ、刑事責任は追わせるべきであった。筆者は、唯一の正しい判決は、執行猶予なしの実刑判決であると考えている。
※ 彼らが無能かつ無責任であることは、事故発生後の彼らの言動によって証明されている。詳しくは「福島第一原発事故を引き起こしたもの」を参照していただきたい。
ひとつだけ例を挙げると、木村英昭「官邸の100時間」(岩波書店2012年)によると、東電の清水社長に2012年1月に取材を申し込んだところ、同社長はこれを断り、周囲にこう語ったそうである。「俺は二度と過去のことを語ることはない」。事実とすれば、無責任の極みである。少なくない一般住民が死亡している事件の最終的な責任者が言うべき言葉ではない。過去の経緯を明らかにするのは、清水氏の責任であろう。
また、我が国の原子力発電所をこのまま運転を続けることは正しいことなのだろうか。よく考えるべきだろう。東京高裁が、我が国の原子力発電所は、どのような災害を発生させるか誰にも予想できないと、公式に宣言しているのである。
残念ながら、これが原子力発電所の現実なのである。
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