福島第一で発生した事故は、長年の自民党政権と東京電力の幹部集団の集団無責任体制の中で起きたものです。
災害に関する専門知識の軽視、事故に対する真摯な意識の欠如、そして無責任な体質によって引き起こされた人災というべきものです。
- 1 はじめに
- (1)福島第一原発事故の発生
- (2)官邸による対応
- 2 災害の原因
- (1)福島第一原発は天災ではない
- (2)福島第一原発事故のはじまり
- (3)福島第一原発の立地条件
- (4)東電は津波対策を忌避していた
- 3 事故後の対応
- (1)福島第一の事故対応の体制
- (2)東京電力の問題点
- (3)福島第一の事故後の状況
- 4 最後に
- (1)福島第一の危機管理は失敗だった
- (2)福島第一の何が問題だったのか
- (3)東電はなぜ事故対策に失敗したのか
- (4)この事故は防げた
- (5)この事故から何を学ぶか
1 はじめに
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(1)福島第一原発事故の発生
いうまでもなく、福島第一原発事故は、2011年3月11日14時46分に発生した東日本大震災による津波に襲われたことを直接の契機として発生した原子力事故である。チェルノブイリ事故に匹敵し、TMI事故の規模をはるかに上回る今後の世界史に残るような原子力災害である。
同原発では、同15時37分に6基の原子炉のうち1号機が全交流電源喪失というきわめて深刻な状況に陥り、しかも、その後の数分間で、6号機を除く2号機から5号機も立て続けに同様な事態となったのである(※)。
※ 4、5及び6号機は点検中で稼働はしていなかった。
(2)官邸による対応
全交流電源喪失の情報は、震災に対応するための緊急災害対策本部で会議中だった菅総理(当時。以下、肩書はとくに断らない限りその当時のもの)のもとにも、数分のタイムラグで伝わった。19時20分には、官邸に原子力災害対策本部が設置されている。
これにより、法的に菅総理がこの事故対策の中枢の役割を果たすこととなる。実際には、全交流電源喪失の情報を得てから対策本部が設置されるまでの数時間も、官邸は本件について情報収集に努めていたが、必ずしも成功してはいなかった。
事故の直後には専門家といえる者は官邸にはおらず=と言っても許されるだろう=東電本社も混乱していて情報の把握も困難だったのである。
2 災害の原因
(1)福島第一原発は天災ではない
福島第一原発の直接の原因は、東日本大震災とその直後に発生した津波である。だが、東電は、地震などでは原発は事故を起こさないと、それまで主張していた。そして、“他の原発は” と付けた上で、今も主張している。
であれば、この事故は「不可抗力の天災」などではありえない。天災が起きても事故につながらないようにしておかなかった「人災」以外の何物でもないだろう。このことは、前橋地方裁判所平成29年3月17日判決、福島地方裁判所平成27年6月30日判決、同平成29年10月10日判決、同平成30年2月20日判決等によっても認められている。
なお、これらの判決はすべて民事訴訟についてのものであるが、刑事責任についても、検察審査会の議決によって東電の関係者が起訴されて東京地方裁判所で集中的な審議が行われ(※1)、2019年9月19日に旧経営陣3名に無罪判決が出されたが、2021年11月から東京高裁で控訴審が始まる(※2)。その結果についても注目したい。
※1 2018年5月9日の第11回公判では、原子力規制委員会の委員であった嶋崎氏が、(政府が公表していた)「『長期評価』に基づいて対策をとっていれば、原発事故は起きなかった」と証言している。
※2 福島原発刑事訴訟支援団WEBサイトによる。
(2)福島第一原発事故のはじまり
本件事故の最初の事象は明確である。地震が発生し、原子炉は停止できたものの外部からの電源が失われてしまったのが始まりであった。原子炉が運転を停止した後も燃料は熱を発している。そのため冷却を続けないと高温になって、最後はメルトダウンを起こしてしまう。そればかりか容器内が高熱のため高圧となって爆発するおそれさえある。冷やすためには原子炉に水を供給しなければならない。そのための装置は、一部を除き(※)電気が必要なのだ。
※ 1号機のIC、2号機以下のRCICは、電力の供給を受けなくても作動する。ただし、長時間に渡って使用できるわけではない。
しかし、原子炉が停止した直後には、外部電源が地震によって失われはしたが、非常用の発電装置が自動起動して冷却のための電力の供給を開始した。つまり、この時点では、それほど深刻な状況ではなかったのだ。ところが、そこへ津波が襲いかかり、非常用の発電装置が使えなくなってしまう。「全交流電源喪失」である(※)。
※ 直流電源(バッテリー)の方は、一部水没したものの、3、5、6号機のバッテリーは事故の時点では使用できた。しかし、3号機のバッテリーは充電できないので、13日には使用できなくなってしまう。
これにより、電源を必要とする冷却装置の機能が喪失してしまう。しかも、電源を必要としない冷却装置も、一部は作業員の誤解によって停止され、機能していたものもいつまでも安定的に使えるようなものではなかった。
(3)福島第一原発の立地条件
我が国の原子力発電所は、通常運転時の冷却に海水を使用する必要があることから海岸付近に設置されている。しかも、福島第一原発は、海水を汲み上げる電力を節約するために、わざわざ建設時に土地を掘り下げて、低い位置に建設していた。
しかも、福島第一原発では非常用の発電装置が一部を除き、地下に設置されていた。このため、津波によって水没して機能を失ってしまう。さらに地上にあったものも、接続されていた電源盤が損傷してしまって、原子炉への電力の供給ができなくなってしまう(※1)のである。なお、このとき、2号機の電源盤の一部が機能を保持していたことが、直後の調査で分かる(※2)が、このことは事故への対応を行うときにきわめて大きな意味を持った。
※1 田辺文也「メルトダウン」(2012年岩波書店)16頁~17頁によると、福島第一には海水で水冷を行う発電機が10台あったが、まず、これらが津波の影響で機能を失ってしまう。次いで、空冷式の発電機は3台を除いて水没して使用不能となる。さらに、残った3台のうち2台は電源盤が水没したため使用できなくなってしまった。残ったのは6号機用の発電機のみで、これは5号機にも電力を送り、5号機と6号機の冷却は可能だった。
※2 この機能(絶縁抵抗)を失わなかった電源盤の存在は大きな意味を持った。電源車を手配して、電源をこの電源盤に接続し、同時に1号機と3号機の高圧注水系にも電力を供給することが可能だと考えられたのである。なお、高圧注水系は機能を保っており、電力さえ供給すれば稼働できた。
宮城県の女川原子力発電所も、東日本大震災で同じように津波を受けたにもかかわらず、致命的な被害を受けなかった。これは、同所が高台に設置されていたからである(※)。
※ 日本経済新聞記事「フクシマは本当に「想定外」だったのか」2016年2月7日記事による。
非常用設備というものは、複数設ける場合には、場所を分散させてできるだけ条件を変えておくのは常識である。しかし、そのような配慮がされていなかったのだ。事故後に菅総理の要請で官邸に参集した東工大の嶋田教授は、「非常用の発電機をそんな海に近いところに置いておくのは間違いなんだ。電源というのは『最後の砦』になるんだ。いちばん重要なのは電源なんだ。例えば、非常用電源は所長室に置いて、所長室こそ地下に置くくらいに考えないといけない
」(※)と発言されたとされる。まさにそのとおりというべきであろう。
※ 木村英昭「官邸の100時間」(岩波書店2012年177頁)による。
(4)東電は津波対策を忌避していた
そればかりか、東電は、福島第一原発について、津波対策を故意に行わなかったのではないかと思える節があるのだ。
一例を挙げれば、東電は、事故の9年前の2002年に、経済産業省原子力安全・保安院(当時)から、福島県沖地震による津波発生時のシミュレーションを行うべきだと指摘されたにもかかわらずこれを拒否している(※)。このとき拒否した理由は「時間と費用がかかる」、「福島県沖地震についてしっかりした理学的根拠もない」というものだったそうだ。
※ 毎日新聞「02年に津波試算拒否 東電、保安院の指摘に」2018年1月29日記事による。
また、2018年4月10日の東京地裁(刑事)の第5回公判で、当時、東京電力で津波対策を担当していた社員が、巨大な津波が来るという想定を武藤元副社長に報告したところ、翌月になって同元副社長から、さらに検討するという方針を告げられ、「津波対策を進めていくと思っていたので、予想外で力が抜けた」と証言した。この巨大津波想定の報告が行われたのは、事故の3年前の2008年6月のことである。
さらに、小森氏(※)によると、1997年に東電は、運輸省や建設省など4省庁が津波防災対策をまとめようとしていたとき、政府に対して文書を提出し、「構造物の設計ではなく防災の観点とはいえ、他機関において津波の評価方法に係わる指針が制定されれば原子力としても大きな影響を受ける」とした上で、「福一、福二、東海地点はNG」などと記していた。4省庁が取りまとめようとしていた文書では、福島第一原発などは対策が不十分ということになってしまうから、そのような文書は困ると言っているわけである。
※ 小森敦司「巨大津波は「想定外」だったのか?」(Web論座2015年10月20日)による。
すなわち、東電は津波発生による事故のシミュレーションと、災害への対応を意図的に行わなかったと考えられる余地があるのだ。これについては、今後の東京高等裁判所による控訴審での判断を待つこととしたい。
3 事故後の対応
(1)福島第一の事故対応の体制
先ほども述べたが、福島第一の事故では、原発の詳細な構造等に詳しいとは思えない官邸の中に対策本部が設置される(※1)。そこにいたのは地位こそ高いものの、福島第一原発の実際の技術的な構造や仕組みに詳しいとは思えない人物ばかりだった。その上、必要な情報も思うようには対策本部に集まらなかったのである。1号機の原発建屋の爆発が起きたときなど、官邸はテレビの報道で情報を得ていたほどである(※2)。
※1 菅総理自身は、東工大理学部で応用物理学を専攻しており、原子力についての知識はあった。しかし、理論を知っているということと、特定の設備の構造や技術的なことが判っているということとは別な次元の話である。
※2 木村英昭 前掲書による。もっとも、福島第一の現場でも、爆発によって感じたのは大きな揺れであり、すぐには揺れの原因は分からなかった。福島テレビの報道で、爆発だと確認できたようだ。
(2)東京電力の問題点
ア 体制の不備
常識で考えれば、技術的な対策についての実質的な本部は東京電力に設置されるべきであろう。福島第一原発の構造などに詳しい職員を集めて配置するとともに、メーカ2社から福島第一原発の設計に当たった職員の派遣を依頼するなどして、体制を整えて事態の収拾にあたるべきであろう。トップは副社長やフェロー級の職員が当たるべきかもしれないが(※)、実質的な判断や対策の検討は、事故の状況が理解できる技術者が当たらなければならない。
※ 社長は他にやるべきことがある。
そもそも、同社は原子力発電所を各所に設置しているのであるから、大震災や原発事故が発生する前に、普段から異常時に備えて、本社など複数の場所に、必要な情報を集中的に把握可能な司令塔としての機能を備えたセンターを設置できるようにしておくべきであろう。また、万一に備えて、情報の把握と事態への検討・判断が的確にできる体制が速やかに整えられるよう、日ごろから連絡体制の整備などをしておかなければならない(※)。
※ 東電は、すべての原発でテレビ会議を行えるようになっているため、福島第一で起きたことはリアルタイムでモニタを通して見ることはできた。
保安院と官邸は、(必要なら)東電の一室を借りて専用のFAXと電話を設置するなどして、しかるべき人物を連絡要員として派遣しておくというのが本来の姿であろう。官邸の本来の役割は、住民の避難や病院や福祉施設への連絡などを、警察庁、防衛省、国土交通省、厚生省などに指示して行うとともに、事態の把握などに全力で当たることなのである。
技術的な、細かな指示を現場に対して官邸が与えなければならないというのは、本来の姿から外れている。ところが、官邸から見て、東電本社の対応があまりにも鈍いためにこのような形にせざるを得ないのである。このような形になった責任は、東電本社にあり、東電本社の現実の無能ぶりから考えれば、官邸の判断は正しかったと言うべきであろう。
イ 情報収集機能の不備
3月12日15時36分、1号機が水素爆発を起こした。これを最初に官邸に報告したのは警察組織である。双葉厚生病院にいた警官が爆発を目撃し、即座に県警本部に連絡を入れた。福島県警本部から、警察庁、官邸にいた警察庁職員と連絡が上がり、この警察庁職員は伊藤危機管理監に告げた。この間、10分足らずである。
このとき菅首相は与野党党首会談の途中であった。会談を終えた16時3分に、伊藤危機管理監からこの報告を受けたのである。菅首相は、東電の武黒フェローに状況を尋ねた。爆発の事実を知らなかった武黒フェローは、ただちに東電本社の清水社長に電話を入れたが、清水社長も事情を知らなかった(※)。
※ 東京新聞原発事故取材班「レベル7 福島原発事故、隠された真実」(幻冬舎2012年)による。なお、福島第一原発の吉田所長は、爆発した後で、テレビ会議システムを通して東電本社に爆発の事実を伝えている。この時刻ははっきりしないが、福島テレビが映像を流した直後のようである。その報告が官邸にいた武黒フェローに伝えられなかったばかりか、東電本社内でも社長に報告されなかったのだ。
それと相前後して、日本テレビが全国放送で爆発の映像を流した。実は福島テレビが、福島第一付近の山中に無人カメラを設置しており、福島第一の1号機から蒸気のようなものが上がるのを確認していた。福島テレビは、日本テレビの全国放送にカットインして福島県内に向けて15時40分から、爆発の瞬間の映像を流していたのである。日本テレビはこれよりもかなり放送が遅れた。
東電本社のトップは、驚くべきことにこの時点でも爆発の事実を知らなかったのである(※)。清水社長の管理能力のなさと責任感の欠如がここに表れていると言えるであろう。
※ 因みに、筆者(柳川)は、当時の東京電力のプレスリリースをすべてwordファイルにコピーして保存している。3月12日【午後5時現在】の東京電力のプレスリリースには、「本日午後3時36分頃、直下型の大きな揺れが発生し、1号機付近で大きな音があり、白煙が発生しました」と、他人事のような書き方をしている。実際は、直下型の地震による揺れではなく、爆発による揺れだった。
なお、この「3月12日【午後5時現在】」のプレスリリースは現時点では削除されており、代わりに(3月12日 午後3時現在)というプレスリリースがアップされている。ここには「平成23年3月12日午後3時36分頃、直下型の大きな揺れが発生し、1号機付近で大きな音があり、白煙が発生しました。水素爆発を起こした可能性が考えられます」と、「水素爆発を起こした可能性が考えられます」が追記されている。
しかし、東京電力本社は、午後3時の時点では、福島第一で爆発事故があったということを知らなかったはずであり、水素爆発の可能性について考えていたことはあり得ない。過去のプレスリリースまで、後になって書き換えるのであるから、この企業の隠蔽体質はあきれるばかりである。
ウ 東電本社の当事者意識の欠如
それどころか、実際には、東京電力本社の幹部職員はすべての努力を放棄して、官邸に丸投げして頼り切っていたとしか思えない面があるのだ。もちろん、福島第一原発の現場では、吉田所長の指揮下で各種の対応をとっていた。努力を放棄していたとしか思えないのは、あくまでも東電本社の幹部職員たちである。福島第一の現場では、東電の末端職員や、少くない下請けの作業者たちは、命がけで事態の収拾に当たっていた(※)。
※ おそらく、下請けの作業者たちの賃金は、東電幹部の数十分の一にすぎないだろうにもかかわらずである。
これに比して、東電本社の対応はひどかった。あるときなど官邸から、必要なものがあれば教えて欲しいと言われて、1日待ってくれという始末だった。そもそも主体的に対応に当たっていれば、必要なものは判っているはずだし、官邸から言われる前に政府に頼らざるを得ないようなものは、自ら政府に依頼するのが本来の姿であろう(※)。
※ このとき、東電が官邸に要求したものの中に、圧力容器を冷やすための特殊な水があり、さすがに菅総理があきれて「海水でいいだろ」と言ったとされる。そのような水を政府が大量に用意できるわけがないし、用意できたとしても運ぶ手段はない。あまりにも非常識な要求である。このようなばかばかしい要求を出していることからも、東電には事故に対応する能力がなかったといえるだろう。
菅総理が現地の視察を行うことになるのも、東電本社の対応のまずさが原因となっている(※)。視察に際しても、吉田所長から菅総理の装備は本社で準備してくれと頼まれて、それも福島第一側で手配せよと指示している。まさに、そのときの東電本社の幹部職員は、"無能"としか評価しようがない状況だったのである。
※ 後に菅総理は、ベントに時間がかかっている理由について東電本社から明確な説明を受けていれば、視察は必ずしも必要なかったと話している。
(3)福島第一の事故後の状況
ア 1、2号機の計器類の作動不良
さて、話を戻そう。福島第一が"想定外"の津波により、全交流電源が喪失したとき、福島第一内にある免震重要棟の緊急時対策本部では、情報が把握できなくなってしまった。
というのは、免震重要棟には、各発電機の詳細な状況を示す計器類はないのである(※1)。計器類は、1、2号機、3、4号機、5、6号機それぞれの発電機を管理する3つの中央制御室にある。そして、緊急時対策本部と中央制御室の間は、それぞれ専用の電話で結ばれている。しかし、1、2号機を管理する中央制御室側で、電源が落ちたため計器類が使えなくなったばかりか、照明さえ消えてしまったのである(※2)。
※1 あったとしても、発電機の側の電源が失われているので、この場合には意味はなかったかもしれない。
※2 3号機は、バッテリーがやや高い位置に設置されていたので、津波にも水没することはなく、電源が確保されていたので計器類は正常に作動していた。なお、免震重要棟は停電しなかった。
イ 1号機のICの停止
福島第一原発の1号機には非常用復水器(IC)、2号機以下には原子炉隔離時冷却系(RCIC)と呼ばれる、電源がなくても作動する(※)冷却装置が設置されている。しかし、3号機は、バッテリーが機能を保っていたため、RCICではなくHPCIという冷却装置を作動させることができた。
※ これらの装置は、いったん作動を開始すると電源がなくても働き続ける。しかし、電源がないと、起動させたり停止させたりすることはできず、また作動しているか停止しているかも分からなくなってしまう。
ところが、1号機と2号機はバッテリーも損傷していたため、ICとRCICが作動しているかどうか分からない状態になってしまった。しかし、様ざまな情報を照らし合わせて、1号機のICは動作していると判断(※)し、この判断は東電本社と官邸にも伝わっていた。
※ 実際には、1号機のICは停止し、2号機のRCICは動いていた。
ところが、その後、バッテリーが一時的に回復し、計器が動作したため1号機のICが停止していると分かるのである。しかし、そのときはバッテリーが回復していたので、すぐにICを起動するスイッチを入れた。これは結果的に正しい判断だった。
ところが、豚の鼻と呼ばれるICの排気管を確認してみると、排気管から排出される蒸気の量が、時間が経つにつれて減っているのである。このため、彼らはこの事故において最悪の判断を下してしまう。空焚きをおそれてICを止めてしまったのだ(※)。
※ この責任が運転員にあると考えるのは誤りだ。事前に運転員に対して、ICの特性や機能について適切な教育・訓練を行っておかなかった東電本社にある。
もし、ここでICを止めなければ、原子炉内の水面から燃料が露出するまでの時間が稼げたであろう。そして露出までに電源車からの配線が間に合えば、メルトダウンが起きなかった可能性もある。そうなれば、ベントの必要もなく、水素爆発も起きなかったと思われる。そして、最悪の事態から原子炉システムを救った、成功物語として世界の称賛を受けていたかもしれない。だが、そうはならなかったのだ。
さらに、ICを止めた情報が緊急時対策本部に伝わらなかった。他の報告が集中していたため、報告を待っている間に、他のことに繁忙されて忘れ去られてしまうのである。そのため緊急時対策本部は、1号機のICは交流電源喪失したときから作動しているという誤った認識を持ったままになってしまった(※)。
※ この情報は、官邸にはさらに誤って伝えられる。官邸には、非常用のバッテリーが作動して8時間は冷却を続けることが可能だが、その後2時間たつと致命的な状況になるという、まったく根拠のない話が伝わっていた。
ウ 電源車の手配と結線の実施
(ア)電源車の手配
繰り返すが、この時点での最大の問題は、全ての交流電源が失われてしまい、原子炉を冷やすことができないということである。そこで、まずするべきことのひとつとして、考えられることは発電機の手配と生き残った電源盤への接続である。
発電機はどこにあるだろうか。近くに大規模な製鉄工場でもあれば非常用の発電機はあるだろう。しかし、そんなものは移動できないからあっても意味はない。では、発電機を備えた船を、原子炉の近くに接岸させることはどうだろうか。しかし、再び津波がくる危険性があるから現実的ではない。ほかに、移動可能な、ある程度の発電能力がある発電機といえば電源車である(※)。
※ 福島第一と第二には電源車はなかった。ところで、きわめて疑問なのだが、可搬式の小型の発電機を搬送することが検討された記録がないのだ。メーカーのカタログを確認してみたところ、ある可搬式発電機は、出力電圧は400Vで525Aの電流を出力でき、出力は50Hzで280kW とされている。開発された日がはっきりしないが2012年には販売されており、2011年当時もあったのではないかと思われる。
福島第一原発の現場では、ただちに東電本社へ電源車の派遣の依頼をした。依頼を受けた東電本社は、自社内の電源車を派遣する作業を進めるとともに、官邸などに電源車の派遣を再依頼した。ここまでは適切だった。
(イ)電源車の手配の最初のミス
ところが、東電本社は官邸に依頼するときに、必要な電源車の発電能力はおろか、直流交流の別、コネクタの形状、電圧、周波数について何も言わなかったのである。また、電源車を手配できたときに、手配した電源車の電圧などを予め教えて欲しいとも言わなかった。依頼を受けた方は、怪訝に思ったに違いない(※)が、電圧や周波数などは東電の方でなんとかできると考えたのだろう。なにしろ相手は東電という電力の専門会社なのだ。官邸側が電源車の種類について気にしたという記録は見当たらない。
※ 私でさえ、最初に電源車のニュースを聞いたときは、電圧や周波数は大丈夫なんだろうか、また接続はどうするんだろうと疑問に思ったほどだ。
そして、この時点では、東電側からの誤った情報によって、バッテリーの電源で8時間は冷却ができると官邸は思い込んでいた。すなわち、電源車がその間に到着すれば問題は解決するという認識だったのだ。官邸では、その認識のまま、自衛隊などに電源車の準備を指示するとともに、在日米軍にも依頼した。
(ウ)電源車の移送と電圧の違い
自衛隊は、各地の基地に電源車を保有している。問題は、移送手段だった。パトカーで先導するにしても、避難民で道路上はごったがえしている。ヘリでの輸送も検討したが、電源車は重すぎてヘリで運べない(※)と判断された。やむを得ず混雑する道路を進んで、東北電力の最初の電源車が到着したのは、22時頃である。
※ この話は、福島第一側には、電源車をヘリで移送すると誤って伝わり、車30台を集めてライトで地上を照らして簡易のヘリポートにする準備をしていた。東電本社の連絡ミスのために、無駄な作業をさせられたのである。
ところで、電源車は無理でも小型の可搬式の発電機なら輸送で来たのではないだろうか。先述した可搬式の発電機(出力 400 Vで作動する)の質量は約 6.2 トンである。
陸上自衛隊が保有する輸送ヘリCH-47JA (1993年には導入されていた)は機外吊り下げ能力が約11トンあるので、発電機を入手できれば=できるだろうが=輸送は可能だっただろう。
なぜ、可搬式の発電機をヘリで輸送しなかったのかは分からない。東京電力が官邸に要求したのは電源車のみである。自走式の電源車にこだわり、可搬式の発電機までは考えが至らなかったのかもしれない。
もちろん、官邸や自衛隊には非難される理由はない。東京電力側が政府の側に正確な説明をしなかったのが問題なのである。責任は東京電力の側にのみある。
14時46分の事故発生からぎりぎり8時間以内だ。官邸には職員の「やったー」という歓声が起きた。これで大丈夫だと誰もが安堵したのだ。しかし、そうではなかった。
到着した電源車は6,900Vのものだった。福島第一が必要としていた電源は480Vである(※)。これでは役に立たない。1時間30分後の23時30分には自衛隊の電源車も到着するが、こちらは家庭用電源と同じ100Vだった。日付が変わった12日の3時までに20台の電源車が到達するが、すべて電圧が合わなかったのである。
※ 先述した可搬式の発電機の出力は 400 Vでやや低いが、2割程度の低さなら充分に必要を満たせた可能性はある。
なお、奄美豪雨災害のときに自衛隊ヘリが電源車を空輸した例はあるようだ。この動画は九州電力送配電株式会社が作成したものだが、作成は2010年(平成22年)だから東日本震災の1年前である。福島第一事故のときにヘリで運べなかった理由は分からないが、軽量の電源車がただちに入手できなかったか、30km程度の短距離でないと無理だったということかもしれない。
(エ)電圧の変換と結線作業
ケーブルで6,900Vの電源車の電源を福島第一内の変圧器に接続して電圧を480Vに落として対応しようと決めたのは、最初の電源車の到着から5時間経った3時になってからである。近くにあった日立の事務所に6,900Vでも使用可能なケーブルがあることを日立の職員が知っていた。配線の方法も日立の職員が分かっている。
しかし敷設すると言ってもケーブルはかなりの重さがある。電源が使用できないので、モータで作動する屋内の運送用のクレーンは使用できない。人手で運搬しなければならず、閉まっているシャッターは重機で破壊する必要があった(※)。ようやく接続が終わって電源盤にランプが点いたのは、翌12日の15時30分頃だったとされる。
※ この話は、官邸に誤って伝わった。電源車が着いたにもかかわらず、ケーブルがなくて接続できず、ケーブルが準備できると、こんどはコネクタの形状が合わなくて電源車は使用できないという情報が伝わっていた。官邸にいた電気工学の専門家は、コネクタが合わなければ、直接、配線を接続すればよさそうなものをと思ったという。
(オ)1号機の水素爆発
だが、わずかに遅すぎたのだ。1号機が狙いすましたかのごとく15時36分に水素爆発を起こし、苦労して敷設したケーブルが大きな損傷を受けてしまうのである。
もし、手配できた電源車は高圧と低圧のものしかないと、予め福島第一が知っていれば、電源車が到達するまでに、電圧の違いに対応するための準備を始めることができたはずである。実際にケーブルで接続しようと決めてから配線が完成するまで、途中で放射線量が増加したために作業を中断した3時間のロスを含めても12時間程度である。もし、電源車の手配ができた時点で、電圧が違うことに気付いていれば、12日の明け方には結線が終わっていた可能性もあろう。
もちろん、福島第一側が予めケーブル接続の準備をしていたとしても、水素爆発を防げたかどうかは分からない(※)。しかし、拙劣かつ重大なミスであったとはいえる。
※ NHKスペシャル『メルトダウン』取材班「メルトダウン連鎖の真相」によれば、1号機はICが停止していたため、3月12日1時6分には、メルトダウンを起こしていた。
この責任は東電本社にあると私は思う。実際に電源車の手配を行ったのは官邸である。だが、官邸は、電源車に電圧の違いがあることなど分からなくて当然であろう。それなのに東電は、官邸に対して、準備できる電源車の仕様を教えて欲しいとも、連絡先を教えて欲しいとも言わなかったのだ。
エ 1号機への対応
(ア)計器類への電源の復活
圧力容器の水位計は直流24Vで動作する。そこで、福島第一の敷地内にあった通勤用バスや下請け企業のバッテリーを集め、いくつかつないで24Vにして1号機の水位計の電源につないでみたところ水位計が復活した。3月11日21時9分のことである。
水位計によると、水位は燃料棒の上端よりも上にあった。これを知った職員にとっては朗報である。それならメルトダウンすることはないだろう。
だが、そうではなかったのだ。この原子炉の水位計は、水温が上がると正常に表示できなくなる構造だったのである。実際には、1号機の燃料棒は完全に水から露出していたのだ。ある意味で、TMIで起きたことと似たような事象がここでも起きていたのである(※)。
※ TMIの原発事故では、逃し弁が故障して開いたままとなった加圧機に水位計が取り付けられていたため、実際には原子炉内の水位が下がっていたにもかかわらず、水位計は水位が高いと表示していた。東京電力はTMIの事故から何を学んでいたのだろうか。
23時50分になって格納容器の圧力計が復活すると、圧力が異常に高いことが判明する。ここにきてようやく1号機のICが動いていないことを緊急時対策本部も認識するのである。
(イ)消防車による注水
一方、電源車の準備と並行して、福島第一の吉田所長の発想だったようだが、消防車のポンプを用いて原子炉内へ水を注入するための準備も進められていた。本来のマニュアルでは、固定式の消火ポンプを用いるのだが、消火ポンプでは注水圧力が低すぎて、原子炉に注水することは不可能だった。
そこで、放射線が高い中で、職員が命がけであちこちのバルブ類を操作し、消防車で水を供給するためのラインの準備を行ったのである。
しかし、消防車の注水圧力は高いと言っても数気圧程度である。これに対し、1号機の圧力容器内部の圧力は数十気圧になっている。水を供給することは不可能であった。これを可能にするにはベントの必要があった。
(ウ)ベントの実施
① ベントの仕組みと必要性
ベントについては、事故当時に大きく報じられたので、一般にもよく知られている。ベントとは、格納容器などの内部の圧力が上がって破裂の恐れがある場合などに、内部のガスを放出して圧力を下げることである。それは、すでに述べたように消防車による注水のためにも必要であった。
3月12日の0時頃には、発電所内の自家用車などのバッテリーをかき集めて計器類の電源に接続し、1号機(※)の圧力が異常な上昇をしていることが判明した。実は、その6時間ほど前の17時10分に1号機建屋の屋外で異常な高さの放射線が観測されている。
※ 東電本社は、1号機のICは動作しており、2号機のRCICの動作状況は不明だと考えていた。そのため、当初は2号機のベントを先に行おうと考えていた。
これらは、ICが止まってメルトダウンが起きていると考えれば説明はつくのである。だとすれば、圧力はますます上昇するだろう。放置すれば格納容器が爆発するかもしれない。緊急にベントの必要があることが認識されたのである。
格納容器と圧力抑制室には、それぞれベントのための配管が設置されている。その配管の途中には3種類の弁が付いている。これらの弁とは、空気弁、電動弁、破裂弁の3つであり(※)、内部のガスを放出するには、このすべてが開かれなければならない。なお、ベントをすれば内部の放射性物質が放出されるが、格納容器よりも圧力制御室の方が放射性物質の量は低いので、このときは圧力抑制室側をベントすることとした。
※ 正確には、空気弁は大弁と小弁の2つが並列に接続されており、どちらか一方を開ければよい。また、電動弁と破裂弁は、格納容器と圧力抑制室の共通となっているが、空気弁はそれぞれに接続されている。このとき開けたのは圧力抑制室の方であり、この方が漏れる放射性部室の量は少ない。
② ベントの困難性
空気弁は通常は圧縮空気で開くようになっている。しかし、1号機の圧力抑制室に設置された空気弁の一つだけは手動でも開くことができるようになっていた。電動弁は文字通り電動で開くものであるが、電源が喪失したときのために、ハンドルが付いていてどの弁も手動でも開くことができる。破裂弁は、人が操作するものではなく、一定の圧力がかかればディスクが破裂してガスが噴出するようになっている。もちろん、破裂弁はいったん開けばディスクを交換しない限り閉じることはできない。
すなわち、1号機のベントは手動で2つの弁を開けることによってできるのである。しかし、誰も具体的な方法は知らないのでマニュアルを確認する必要があり、しかも弁の付近は放射線のレベルが高くて簡単には近寄れなかった。さらに酸素ボンベや防護服などの必要な装備を、地震で散乱した物資の中から探す必要もあった。
③ 菅総理の視察とベントの実施
ところが、この状況を東電本社が官邸に伝えないのである。いつまで待ってもベントが行われない原因を、菅総理が訪ねても要領を得た回答が返ってこない。そのため、菅総理は東電が意図的にベントを行わないのではないかと疑ったようである。これを直接の契機として、直接、福島第一に乗り込むことになる。ただ、それによって作業が遅れたりはしなかった。現場の職員や作業者たちは、何を優先すべきかについて誤ることはなかったのである。
結局、電動弁を決死隊による手操作で開き、空気弁は下請け業者が保有していた携帯コンプレッサを利用して遠隔操作で開くことができた。すでに、3月12日の14時50分となっていた。
(エ)水素爆発
そして、3月12日15時36分、先述したように作業者たちの必死の努力をあざ笑うかのように、1号機の水素爆発が起きる。ベントが成功し、電源車からのケーブルの接続も終わって、ほっと一息ついた直後のことである。事態は、最悪の事態に陥ったと考えられた。
だが、爆発の後、放射線の強さはそれほど上昇しなかった。ということは、格納容器そのものは爆発していないのだ。破壊されたのは建屋だけだ。事態はそれほど悪いわけではない。まだ、なんとかなる。
ところで、班目原子力安全委員長は、爆発の瞬間まで、菅総理に対して水素爆発はありえないと説明していた。燃料棒が溶融し、ジルコニウムが水と反応すると水素が出ることは分かっている。しかし、それは格納容器の中の話である。格納容器の中には酸素はない。従って水素が爆発するはずがなかった。
ところが水素が格納容器の外に漏れていたのだ。爆発は、漏れた水素が建屋の上部にたまって起きたと考えられている。漏れた経路は現在も明確にはなっていない。電気配線が貫通している部分で電線の被覆が高温で溶けたか、Oリングが高温で溶けて漏れたのではないかと考えられている。水素分子は小さいので、窒素などに比べれば漏れやすいことは事実である。
このことで、班目委員長は菅総理の信頼をなくしてしまう。このことは望ましいことではなかった。格納容器内部の水素が建屋内に漏れるなどとは、専門的な知識があれば、逆に予想できなかっただろう。
(オ)原子炉内への消防車による注水
① 消防車による注水の実施と海水への切り替え
さて、吉田所長が、かなり早い時期から消防車による1号機原子炉への注水を考え、注水のための経路の準備を命じていたことはすでに述べた。南明興産によって注水作業が開始されたのは1号機が水素爆発する前の12日の2時頃である。消防車のタンクが空になったため、いったん中断したものの付近の防火水槽などの水を使って、1号機の水素爆発まで断続的に注水作業が行われていた。
しかし、それも水素爆発によって中断してしまう。付近には放射性物質を含むがれきが散乱し、ホースもあちこちに傷ついてしまう。そのような状況の中、ホースを交換して、今度は海水のあるピットまで3台の消防車を並べて、リレーをする形で、海水の注入を開始した。
② 官邸における海水注入の議論
吉田所長は知らなかったが、そのとき官邸と東電の間で、やや見当はずれな議論が行われていた。菅総理は、かなり早い段階から海水を注入する必要があると考えていた。これに対して特に反対する者はいなかったが、再臨界のおそれについて検討していたのである。ところが実際には、官邸の議論などとは無関係に、現場では当然のこととして海水注入の準備が進んでいたのだ。
ところが、東電の武黒フェローが、このときも菅総理に誤った情報を伝える。海水注入までに「1時間から2時間かかる」と説明したのである。これを聞いた菅総理は「(それならそれまでに)再臨界があるかどうかも検討しておいてくれないか」と発言した。
そして、その直後に武黒フェローは吉田所長に電話をして、実際には現場では海水の注入作業がはじまっていたことを知る。武黒フェローは、先ほどの自分の説明と矛盾するとまずいと思ったのか、吉田所長に対して海水注入を待つように命じ、これを菅総理の命令だとごまかすのである(※1)。東電本社の幹部職員が、住民の安全や安定的な電力供給よりも自分たちが責任を問われないことを優先させた少なくない事例の一つである(※2)。
※1 木村英昭 前掲書(140頁)による。この点、門田隆将の「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日」(PHP研究所 (2012)は、東電本社を擁護する立場から書かれており、東電に対して菅総理が海水注入を止めたかのような記述をしている。しかし、吉田所長に対して海水注入を止めるように命じたのは、門田氏も認めているように東電の武黒フェローなのである。武黒フェローは、海水注入が始まっていることを吉田所長への電話で知り、すぐに海水注入を止めるよう命じた。武黒フェロー本人がそのときまで知らなかった海水注入を、菅総理がどうやって止められるというのだろうか。すべては、武黒フェローと東電本社の責任なのである。
※2 木村英昭記者の前掲書によると、東電の清水社長は福島第一からの撤退が問題となっているとき、官邸に向かう車の中で「また怒られるんだよなあ」と気にしていたという。多くの国民が放射線の不安におびえており、また少なくない人々が故郷を追われている中で、事故の最終責任者が怒られることを気にしているのだ。事実とすれば、この企業は、トップの意識がやや理解不可能だというべきだろう。
このとき、前総理の安倍晋三氏は、ブログで菅総理が海水注入を遅らせたと書いたが、これは誤りである(※)。
※ 安倍元総理はこの誤りについては、今に至るも知らぬ顔をしている。森友・加計・桜と、国民の怒りの対象となっている事件を起こした人物の面目躍如というべきか。
オ 3号機の異常と対応
(ア)HPCIの停止
この頃まで3号機はバッテリーが作動していた。そのためHPCIという高圧注水システムが作動していた。ところが、バッテリーを充電するための電源はない。そのため、バッテリーの蓄電量は減少してゆき、HPCIの動作が不安定になっていった。
接続した電源車のケーブルが、1号機の水素爆発によって被害を受けると、バッテリーが放電してしまうまでに、再充電する見込みはなくなった。そこで、HPCIを停止して、消防ポンプで水を送り込む方法に切り替えることとしたのである。
13日2時42分に、まずHPCIを停止した。次に、格納容器から圧力制御室へ内部のガスを逃がすSR弁を開こうとした。そうしないと格納容器の内部の圧力が高すぎて、消防ポンプの圧力では注水することはできないからだ。だが、遅すぎた。
SR弁を開くにも電力が必要なのだ。しかし、バッテリーの放電が進んでいて、すでにSR弁を開くことはできなかった。もう少し早ければよかった。慌ててHPCIを再起動しようとするができなかった。HPCIは、停止させるときよりも起動させるときの方が多くの電力を必要とする。つまり、そのときのバッテリーの蓄電量では、止めることはできても再起動することはできなかったのである。
しかも、この事情が、1時間近く吉田所長に伝わらなかった。冷却系が止まった3号機は、この後、ますます内部の圧力が上昇してゆく。
(イ)SR弁の開放と消防車による注水
① バッテリーの確保
とにかく、バッテリーをどこからか調達してきて接続し、SR弁を開けなければならない。それができたら、消防ポンプより圧力の高い消防車で注水する。3号機の必要な電圧は120Vだった。12Vのバッテリーなら10個あればとりあえずはしのげる。
すでに述べたように東電の本社は、11日の夜から12Vの充電済みのバッテリーを多数集めていたが、この時点では福島第一には届いていない。バッテリーは、電源車とは違ってヘリで輸送できる重さである。ところが、航空法で輸送が禁止されており(※)、しかも放射線量が高まっていたため、民間機では運べない。
※ ここでも、バッテリーではなく、小型の可搬式発電機なら簡単に運べたのではないかという疑問はある。12Vや100Vの可搬式の小型発電機など簡単に入手できるし、ヘリで運ぶことも簡単なのである。
なお、電解液の入っている鉛電池でも、防漏型のものは一定の要件を満たすことにより輸送規制から外される。しかし、防漏型の鉛電池はほとんど存在していない。
運ぶとすれば、緊急避難的に自衛隊のヘリで運ぶことが考えられるが、自衛隊にはバッテリーを運ぶ要請はなかった。官邸でも、バッテリーの運搬が話題になった形跡はない。東電本社のミスと言うべきであろう。
そこで、福島第一では、再び車からバッテリーを抜き取ることにした。社員や下請けの従業員の車のバッテリーを借りたのである。
② SR弁の開放と消防車による注水
8時過ぎにバッテリーの接続に成功し、SR弁が開いて原子炉内の圧力は急速に下がった。これで消防車による注水を開始することができるはずだ。これで、3号機はメルトダウンから救われると誰もが思った。だが、そうはならなかったのである。
注水を始めて20時間ほど経過し、計算上は原子炉を満水にできるほどの水を注ぎこんだにもかかわらず、原子炉内の水位が上がらないのである。この原因はNHKの取材班によって、後に解明されることとなる(※1)。NHK取材班によると、このとき消防車によって注水された水は45%程度しか原子炉には送り込まれなかったという。特殊な経路を通して、55%の水が復水器へ漏れていたのである(※2)。
※1 NHK「メルトダウン」取材班 前掲書による。
※2 産経新聞「1~4号機個別復旧プラン策定 難題山積、実現性?」(2011年4月11日記事)など。復水器に溜まった汚染水をどのように処理するかは後に問題となる。
(ウ)メルトダウンそして爆発
水位が上がらないのだから、もはやメルトダウンは避けられない。そして、1号機と同様なメカニズムであろうが、水素爆発が起きる。14日午前11時1分のことである。
そのとき屋外で作業していた40人の作業者たちは、たまたま屋内に入ったときだったり、飛来したがれきの直撃を外れたりして、死者はでなかった。このことは奇跡的な幸運だったと言える。
カ 燃料プールの問題
(ア)4号機の燃料プール
今まで記述したのは、原子炉内部の燃料の冷却の問題であったが、実は、原子炉外にも燃料は存在している。使用済みの燃料がプールの中に貯蔵されているのだ。これが最も問題になるのは、4号機である。4号機は原子炉内にあった燃料がすべて燃料プールに移されていた。そのため、他の使用済み燃料のみが入っている燃料プールよりも温度が高くなっていると考えられた。
実は、米国は4号機の燃料プールを、1、2、3号機の原子炉よりも気にしていた(※1)。たびたび日本側に4号機の燃料プールに注水するべきだと日本政府に助言してきている(※2)。原子炉の外にあるため、この燃料プールの温度が上昇して水が亡くなってしまうと、メルトダウンして放射性物質が大量に空気中に放出されるおそれがあった。そして、燃料プールの温度は高くなっていたのである。
※1 産経新聞「米国、80キロ以内の自国民に避難勧告 「事態悪化」と原子力規制委員長」(2011年3月11日記事)、同「原発事故7場面検証(5)燃料プール 炉を優先、放置続ける」(2011年4月9日記事)など
※2 私(柳川)がある在日米軍の関係者から聞いたところによると、ある米軍基地で、福島第一の近くの池から4号機まで配管を設置するための具体的な準備をし、日本政府に申し入れて実際に配管の設置をする人選までしていたが、日本政府からの要請がなかったので実現しなかったという。ただし、未確認情報であり、しかも配管だけ設置してみても、燃料プールに注入できなければ意味はない。
(イ)4号機の水素爆発
3号機の建屋が水素爆発した直後の15日6時14分、4号機の建屋も爆発する。燃料プールの水がなくなって燃料がメルトダウンし、水素が出ていたのだとそのときは考えられた。しかし、建屋が吹き飛んでいたことで、燃料プールの様子が確認できるようになった。
上空から確認した燃料プールには、おどろくべきことに、4号機を含めてすべて水で満たされていたのである。燃料プールの隣にあった機器貯蔵プールから水が流れ込んでいたらしい。4号機の建屋で爆発した水素は、4号機の燃料から発生したのではなく、3号機建屋から流れ込んでいたのである。
(ウ)プールへの放水
この後、燃料プールに向けて、自衛隊のヘリをはじめとして、警視庁機動隊の放水車、自衛隊・米軍・東京都の消防車がそれぞれ放水を行った。しかし、効果はほとんどなかったと考えられている。その後、建設会社等からコンクリートポンプ車の使用の申し出があり(※)、これを使用したことで実質的な注水が可能となった。
※ 日本経済新聞 2011年3月23日「生コンポンプ車で150トン注水、福島第1原発」など参照
キ 2号機の問題への対応
(ア)注水の準備
この時点では、2号機の状況は、1、3号機に比べれば条件は良かった。RCICが動いていたからである。だが、これは安定的にいつまでも動くようなものではない。いずれ止まるのは目に見えていた。そのため、志願者を募って、2号機についても消防車による注水の準備作業を並行して進めていた。そして、14日15時過ぎに準備は整った。
だが、注水を始めるには、まず、原子炉内部の圧力を下げなければならない。その方法は2つあった。ひとつはベントによって原子炉の圧力を直接外に逃がすことで、これは大量の放射性物質を屋外に漏らす恐れがある。もうひとつはSR弁を開放して圧力抑制室へ圧力を逃がすことだが、そのとき2号機の圧力抑制室は、温度と圧力が高くなっていたため、SR弁を開くと圧力抑制室が破裂するおそれがあった。
(イ)SR弁の開放と注水
これをどうするかについて検討をし、ベント優先に固まりつつあるときに、班目安全委員会委員長から吉田所長に電話が入った。班目委員長はSR弁の開放をするようにとの助言をしてきたのである。実を言えば、吉田所長は、この助言を受けても、ベントを行おうとした。しかし、うまくいかなかった。1号機のときと同じようにコンプレッサで空気弁を動かそうとしたのだが、作動しないのである。
そこで、SR弁を開けることにし、開けるための電源を確保するため、構内からかき集めたバッテリーをつないだ。SR弁を開けると原子炉内の水が一気になくなることが予想されていた。しかし、何もしなければ状況はもっと悪くなる。ところが、今度はSR弁が動かない。
様ざまにいじりまわしているうちに、突然、原子炉の圧力が下がり始めた。SR弁が作動したのである。すぐに注水を始めなければならない。ところが、注水ができない。原因は、消防車のガソリン切れだった。長時間、待機させているうちにガソリンがなくなってしまったのだ。手痛い見落としだった。すぐに消防車に給油の作業を始める。なんとか注水が始まったのは19時54分である。
(ウ)圧力が下がらない
ところが、その後も、原子炉内の圧力は消防車による注水ができるまでには下がったものの、正常値までは下がらなかった。ベントをすれば圧力は下げられたろうが、空気弁は動こうとしない。このままでは、原子炉そのものが破裂することさえ予測される。事態は最悪となっていた。
15日6時10分、爆発音と共に2号機の圧力抑制室の内部圧力が一気にゼロ(大気圧)に落ちた。理由は、格納容器が損傷したこと以外にあり得ない。その後、完全に破裂はしなかったことは分かったが、たぶんどこかに穴が開いたのだ。その結果、大量の放射性物質が放出されていたのである。
4 最後に
(1)福島第一の危機管理は失敗だった
福島第一の事故は、危機管理という観点からは明らかな失敗例と言えるだろう。6基ある原子炉のうち3基の原子炉でメルトダウンを起こし、4棟の原子炉建屋で水素爆発を起こし(※)、2号機からはかなりの量の放射性物質が放出されたのである。
※ 2号機の建屋は破壊されてはいない。
この事故では、東電本社の不手際と無責任な対応が目立った。官邸に対してさえ、情報を正確に伝えることができず(※)、官邸はしばしば誤った情報に基づいて対応を行ったり、枝野官房長官も正確な情報がないまま記者会見に臨まざるを得なかったりした。1号機の水素爆発の後の枝野長官のいわゆる"爆発的事象"という表現は、後に批判を浴びることとなるが、この記者会見の時点で官邸は、水素爆発について正確な情報を東電から得られなかったのである。
※ あるいは、意図的に伝えなかったのか。
(2)福島第一の何が問題だったのか
ア 事故への対応(技術的な面)
(ア)1号機のICの停止
福島第一の事故対応について、まず、何よりも重大なミスは、運転員が1号機のICを停止させて、それを免震棟に報告しなかったことである。このため、吉田所長や官邸は1号機が深刻な事態になっていることに気付けなかったのだ。
また、ICさえ動いていれば、1号機は津波の後、10時間から20時間程度はメルトダウンに至らなかった可能性がある。メルトダウンする前に電源車の準備と結線ができていれば、冷却に成功していたのである。
しかし、これは運転員のミスというよりも、ICの稼働について必要な知識を現場に付与しておかなかった東電本社の過ちである。東電本社が、日常から全交流電源喪失という最悪の事態を予想して、ICやRCICの使用方法や特性などを、運転員に教育しておけばこのようなミスは起きなかったであろう。
最悪の事態を予測しなかったか、予測しようとしなかった東電本社の慢心とおごりが生んだミスと言えるであろう。
(イ)電源車にこだわったこと
全交流電源喪失が起きたとき、電源車を福島第一へ移送することとしたことは理解できる。そのこと自体は正しいことだった。だが、電源車は道路で移送するしかない。ヘリでは重すぎて運べないと判断され、鉄道や船での移送は問題外だった。結局、電源車は、避難民による渋滞に巻き込まれて、到着がメルトダウンに間に合わなかったのである。
なぜ、電源車の前にバッテリーを移送しようとしなかったのだろうか。バッテリーは航空法の問題があり、多少の危険はあるものの、重量的にはヘリで輸送できるのである。全交流電源喪失の直後に自衛隊か米軍に要請すれば、彼らは車両整備の能力があり、車両用の予備のバッテリーは保有している。そして、全交流電源喪失(津波)の直後なら放射線の危険もなく、ヘリで運ぶのは簡単だったろう。
また、なぜ、可搬式の小型の発電機をヘリで移送しようとしなかったという疑問もある。ヘリで運べる可搬式の発電機ならヘリで運べたのだ。ただ、このことを指摘している文献は見当たらないようだ。
そして、バッテリーが手に入れば、1号機と2号機の計器類は作動することができ、1号機のICを起動することもできたのだ。ICは動いているのでバッテリーは緊急には必要ないと思ったのかもしれないが、2号機のRCICは止まっていたと考えられていた(※)。だとすれば、RCICを動かすために、バッテリーは必要だったのだ。そして、同時に1号機にも接続すれば、ICの不動作が判明し、吉田所長は迷わずICを動かせたであろう。
※ すでに述べたように、実際には1号機のICは止まっており、2号機のRCICは動いていた。
しかし、東電本社が官邸、自衛隊、米軍などにバッテリーの供給を依頼した事実はない。また、可搬式の小型の発電機をヘリで輸送することも依頼していない。まったく、理解できない手際の悪さと言うべきであろう。これも東電本社の幹部職員の責任感の欠如が生み出した問題と言えよう。
(ウ)バッテリーの移送の不手際
実を言えば、東電本社は、3月11日の夜までに民間業者にバッテリーを発注して、道路で輸送したのである。ところが、近くまで行ったところで避難勧告が出ていたため、民間の輸送車は福島第一原発まで行けなかったので、近くの東電の関連施設へ運んだ(※)。そこから先は、東電の職員が運ぶべきだが、運送中の被爆を恐れて、福島第一まで届けなかったのである。福島第一の現場では、それよりもはるかに被ばく量の高い作業を行っていたにもかかわらずである。
※ これを民間の輸送車のドライバーの責任とするかのごとき論調があるが、不適切である。民間企業としては、政府から近寄るなと言われれば近寄ることはできない。バッテリーがなければ原子炉が危機的な状況に陥るとは、彼らは知らないのである。東電に任せようとして、最寄りの東電の関連施設へバッテリーを運んだことは適切だった。バッテリーが福島第一へ運べなかった責任は東電本社にのみある。
また、その時点であっても、東電本社が、自衛隊か福島県に依頼すれば輸送できた可能性もあろう。なぜそうしなかったのかは分からないが、ここでも、東電本社は事故対応のための肝心なことができていないのである。
場合によっては、成功報酬1000万円程度と事後の無償の健康管理を約束して、ドライバーを公募してもよかった。テレビで一般のドライバーに呼び掛けて、県警に対してその車両について避難勧告を解除してもらえば、応じたドライバーはいたのではないだろうか。もちろん、社会的な批判は浴びただろうが、そんなことを言っている場合ではないだろう。事故終息後に、清水社長が責任を取って辞任すればよいだけのことなのである(※)。
※ 日本経済新聞2012年5月31日付け記事「東電の清水前社長、富士石油の社外取締役に」などによると、清水社長は、その後富士石油の取締役に就任している。
(エ)構内の車両のバッテリーをすぐに使用しなかったこと
また、福島第一の構内には、かなりの自動車が駐車していた。それらはバッテリーを搭載している。また、下請けでバッテリーを保有している業者もいた。それらのバッテリーを利用したのは、事故後かなり経ってからである。これらのバッテリーを全交流電源喪失後に、ただちに使用していれば、1号機のICを復活させることはできたはずである。
持ち主の分からない自動車は、窓ガラスを割ってボンネットを開ければ、バッテリーは簡単に外れたはずである。自動車は個人の所有物なので、破壊するのは問題かもしれないが、そんなことを言っている状況ではなかったのだ。
(オ)生きていた発電機を利用しなかったこと(疑問点)
これは後になってわかるのだが、1号機から4号機までの発電機で地上にあった2台は生きていたのである。これらに接続されていた電源盤が水没したために電力の供給ができなくなったのだ。
一方、地下に設置されていて機能を失った別な発電機に接続されていた電源盤のうち1台はなんとか、一部の機能を保っていた。全交流電源喪失後に、電源盤の絶縁抵抗を調べて、機能が生きていることが分かったので、電源車を移送してもらってここへ接続しようとしたのである。
だったら、機能を保っていた発電機から機能を保っていた電源盤へ配線をすることはできなかったのだろうか。これについては、疑問点を指摘しておく。
イ 管理面の不手際(独自の視点から)
(ア)補給と休養の不備
管理面について、あまり誰も指摘していないことについて、ここで指摘しておきたい。NHK(※)によると、福島第一では、職員や下請けの従業員に供する、水や食料が極度に不足していたという。また、吉田所長は、100時間近く不眠不休だったようだ。最後に、2号機の爆発の直後になって、吉田所長は下請けに対して、退避してくれてよいと言ったとされる。もしかすると極度のストレスと疲労で、責任のない人間を退避させて死ぬ気だったのではないかとさえ思える。
※ NHK「メルトダウン」取材班 前掲書による。これによると、東電の職員や下請けの従業員は、1日にペットボトルが1本、食事は2食のみで、その内容も菓子類程度だったようだ。また、放射線レベルの高い場所での作業を志願した職員に、他の職員が水を与える話が美談のように出てくる。だが、そもそも東電本社が、水や食料などは責任をもって準備しておくべきなのだ。
このような食事や睡眠が不十分な状況では、ケアレスミスやヒューマンエラーが起きやすくなるのである。この東電の不手際のために、ヒューマンエラーが起きて、さらに重大な事故となった可能性もあるのだ。
これは、すべて清水社長をはじめとする東電本社の責任である。これが警視庁か自衛隊であれば、緊急的な職務に就く隊員の、食事、水、携帯トイレ、就寝用の毛布から文房具類、さらには女性の生理用品まで、必要な物資の確保について、専門の職員が職務として対応して適切な補給を行ったであろう。
(イ)自衛隊からの申し出への非対応
実は、全電源喪失の直後に、自衛隊から官邸に対してなにかできることはないかと問い合わせがあり、官邸では東電に聞いて欲しいと応えたことがあった。このとき、東電は、なぜ物資の補給を頼まなかったのだろうか。自衛隊は、戦闘用の糧食(レーション)(※)など必要な物資を多量に保有している。さらに、人数と日にちさえ分かれば、どの程度の物資が必要かの計算も簡単にできる能力を持っているのだ。
※ 美味くはないという説もあるが、栄養価は考えられている。
このとき、物資の糧食、水、携帯トイレ、毛布、簡易ベッド、女性の生理用品や簡単な薬品類などの補給を依頼するとともに、東電からもバナナや蜜柑などの果物やチョコレート、ビスケットなどをヘリで大量に送っておくべきであった。
併せて、福島第一から10キロから20キロ程度の距離にあるホテルを借り切って、職員を交替で休憩させるとともに、医師を常駐させて必要な医療行為を行わせるべきだった。
このようなことをしないのは、人間を大切にしない東電という企業の本質が現れたと言うより他はない。もし、補給と休養が十分に行われていればケアレスミスが防止でき、2号機への注水作業が、ガソリン切れのためにできないなどということはなかったかもしれないのである。
(ウ)東電の不手際(情報の官邸への提供)
東電本社ではテレビ会議システムによって福島第一の現場をディスプレイで観ることができた。これも誰も指摘しないが、この映像を、ネットを通して官邸と原子力保安委員会へリアルタイムで提供するべきであったと私は考えている。
また、福島第一の免震棟と、各原子炉を成業する3つの中央制御室との間には専用電話があったが、可能ならこれも官邸で聞けるようにしておくべきだった。
また、福島第一の詳細な各種の図面を官邸や原子力保安院に提供するべきであった。そうすれば、官邸側では、専門家のチームを組み、同一室内でこの映像と音声を分担して監視するとともに、何かあれば大声で情報共有するようできたであろう。
菅総理や、班目委員長に対しては、必要に応じて、適宜、情報を流せばよい。また、逆に情報が欲しい時は、そこへ行けばかなりのことが分かっただろう。
そうしておけば、東電本社と官邸の間での、情報のいきちがいは少なくなったのではなかろうか。
(ウ)東電の不手際(情報の公開)
また、これについては異論があるかもしれないが、私は、前項で官邸等に提供するべきと述べた情報を、リアルタイムでインターネットによって公開するべきだったと思っている。そうしておけば、日本語が判ればだが、世界中で状況を確認できたばかりか、大学や研究所など様ざまな機関で、多くの専門家が状況について分析し得たであろう。
その結果は、報道機関で報道されたり、ネットにアップされたりして、周辺住民の行動を決定することに役立ったはずである。このように言うと、フェイクニュースが蔓延したりパニックが起きたりするのではないかという心配があるかもしれない。
しかし、情報というものは出さないからこそ、フェイクニュースが蔓延したりパニックが起きたりするのである。正しい情報を流すことは、フェイクニュースを打ち消すことに寄与こそすれ、フェイクを助長するようなことにはならないのである。
また、危機的な状況が発生したとき、人々は簡単にはパニックを起こさないものなのである。むしろ緊迫感を伝えることが難しいほどなのである。タイタニックの事故でも、ワールドトレードセンタービルでも、パニックの弊害よりも逃げ遅れることの弊害の方が大きいのだ。
(3)東電はなぜ事故対策に失敗したのか
ア 準備不足(想定できたことに目をつぶった)
東電が事故対策に失敗した最大の原因は、なによりも準備不足ということにつきる。10mを超える津波に襲われるという事象は、"あると都合が悪いから起きない"という前提で、想定しようとしなかったのだ。これは、"想定外"などではなく、"都合が悪いことは起きない"ことにしていたにすぎないのである。
そのため、以下のような問題が発生したのである。
【都合の悪いことは起きないと考えた結果】
- ① 多くのディーゼル判電機の地下への設置
- ② 電源盤の津波からの保護対策の未実施
- ③ バッテリーの津波からの保護対策の未実施
- ④ 電源車の未配備
- ⑤ ICに関する教育訓練の未実施
- ⑥ 電源喪失時のベント実施方法の未整備
- ⑦ 連絡体制や連絡方法の不備
イ 東電本社の責任の放棄
また、東電本社が、福島第一の現場と官邸にすべてを任せてしまい、自らの責任を放棄したことが挙げられる。このことは、菅総理が福島第一へ視察に行ったとき、菅総理の防護服の準備まで福島第一にやらせたことなどに端的に表れている。
要するに、東電本社は福島第一の現場をサポートしようとする気がなかったとしか思えないのである。このため、以下のような問題が発生したのだ。
【東電本社が現場をサポートしなかったために】
- ① バッテリーの確保と移送の不手際
- ② 電源車の確保に当たっての連絡ミス
- ③ 糧食・水の補給の未実施
(4)この事故は防げた
ア 刑事裁判の被告の主張
東京地裁及びその控訴審の東京高裁の刑事事件の公判において、勝俣会長、武藤副社長、武黒フェローらの被告人は、無罪を主張している。津波の予見はできなかったということと、対策をとっても間に合わなかったと主張しているのだ。しかし、このような主張は、到底信用できない。
イ 津波の予見は可能だった
繰り返すが、2018年4月10日の東京地裁(刑事)の第5回公判で、当時、東京電力で津波対策を担当していた社員が、巨大な津波が来るという想定を武藤元副社長に報告したところ、翌月になって同元副社長から、さらに検討するという方針を告げられ、「津波対策を進めていくと思っていたので、予想外で力が抜けた」と証言した。この巨大津波想定の報告が行われたのは、事故の3年前の2008年6月のことである。
すなわち、予見はできていたのである。可能性がある以上、対策の検討をすることは当然であろう。
ウ 事故の防止は可能だった
津波の警告を受けたとき、以下のことをするだけでこの事故は防止できた可能性が高いのである。
【福島第一事故はこれだけで防げた】
- ① バッテリーと電源盤の位置を、建屋の上部に移す。
- ② 6棟の建屋の上部に480Vの発電機を設置する。
- ③ 480Vの電源車を数台特注して、近くの高地の複数の倉庫を借りて待機させておく。
- ④ ICの操作方法などを運転員への教育訓練をしておく。
- ⑤ 多量の放射線用保護具、非常用食料、水、簡易トイレ等を準備しておく。
バッテリーの移設(又は上階への新設)など一か月もかからない。電源盤の移設は、多少時間がかかったかもしれないが、半年かかることはありえない。一番時間がかかりそうなのは、480Vの発電機と電源車の準備だが1年もかかるわけがない。
費用にしたところで、たぶん1億もかからなかったのではなかろうか。
ところが、東電は、10メートル以上の津波が来るとすれば、完全な対策を立てるには堤防で敷地全体を囲む必要があると考え、それにはカネがかかるから、"津波はこない"ことにして、簡単に実施できる次善の対策さえたてなかったのである。
(5)この事故から何を学ぶか
この事故から学ぶべきことは多い。東電の最大の失敗は、津波が来るという警告はあったにもかかわらず、"都合の悪いことは起きない"という馬鹿げた意識から抜け出せなかったことだ。官僚主義に陥り、くだらない権威主義にとらわれて、自ら考えるということをしてこなかったために、このような重大な災害となったのだ。
その責任は清水社長、勝俣会長(前社長)をはじめとした歴代の幹部職員にあるが、彼らには、真摯に事故の反省をするという気はないようだ(※)。この企業は、おそらく同じことを繰り返すだろう。
※ 木村英昭記者の前掲書によると、東電の清水社長に2012年1月に取材を申し込んだところ、同社長はこれを断り、周囲にこう語ったそうである。「俺は二度と過去のことを語ることはない」。事実とすれば、無責任の極みである。少なくない同社の社員が将来病気になるリスクをかかえるレベルの放射線を浴びたり、一般住民が死亡したりしている事件の最終的な責任者が言うべき言葉ではない。過去の経緯を明らかにするのは、清水社長の責任である。
この事故から、東電を反面教師として学ぶべきことは、"都合の悪いことは起きない"などと考えずに、起き得ると考えて、まず、簡単な対策を速やかに実施し、その後、順に本質的な対策を実施することである。
そして、もうひとつ大切なことは、職員や関連企業の職員を人として大切に扱うということである。これがなければ、人心は離れてしまう。残念ながら、東電は事故対策のために過労死した下請けの従業員からの賠償請求にも徹底的に争うなど、人を大切にする気もないようだ。これでは、今後、危険を冒してまで東電のために働こうという人材はいなくなってしまうだろう。
次に東電が深刻な原発事故が起こすのは、そう遠くない将来のことであろうと思えてならない。
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