「生きて、もっと歌いたい=片足のアイドル木村唯さん、18年の軌跡」(朝日新聞社刊2017年10月)を題材に、治療と職業の両立支援について考えます。
小児がんに罹患しながら、花やしき少女歌劇団で活躍した木村唯さんとその仲間たちに学びます。
- 1 はじめに
- 2 木村唯さんのたどった足跡
- (1)花やしき少女歌劇団
- (2)発病
- (3)手術とステージ復帰
- (4)再発
- (5)治療を受けながらの活動
- (6)ステージで将来の夢を語る
- (7)最後のライブ
- (8)木村唯さんの遺したもの
- 3 産業保健の場で木村唯さんから何を学ぶか
- (1)職場への受け入れ方
- (2)治療との両立
- 4 最後に
- 【追記】歌劇団その後
1 はじめに
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不思議に「かわいそう」という感情は湧かなかった。むしろ、しっかりした女性だなという感じがした。若い女性を表すのに適切な言葉かどうかは分からないが、プロの職業人という形容がピタリと合うように感じたのだ。
そのように感じたのは、彼女の歌やダンス=上半身だけの表現だが=と楽しそうな笑顔に、どこか惹きつけるものがあるからだろう。といっても、私自身は彼女の舞台を直接見たわけではない。最近になって、ユーチューブの動画を見たにすぎないのだが。
彼女は、人気があった=ではなく「ある」というべきだろうか。それは、彼女が小児がんで片脚を失ったにもかかわらず健気に舞台で頑張っているということへの共感もあっただろう。しかし、それよりも、舞台における彼女の歌唱力とダンスの表現に魅力があったことの方が大きいのではないかと思う。
昨年9月に、教育面「いま 子どもたちは」で連載した「唯さんのいた日々」が朝日新聞出版から本になりました。筆者は芳垣文子記者(現・北海道報道センター)です。小児がんで右足を切断しながらも、アイドルとして活躍した唯さんと家族、仲間たちの記録です。ぜひ、お読み下さい。 pic.twitter.com/JiDFw1vDwO
— 朝日新聞教育班 (@asahi_school) October 6, 2017
今回のこのシリーズは、映画から外れて、朝日新聞社の記者である芳垣文子氏のルポタージュ「生きて、もっと歌いたい=片足のアイドル木村唯さん、18年の軌跡」(朝日新聞社刊2017年10月)を取り上げる。なお、本稿で「本書」というのはこの著書を指す。
私が木村唯さんのことを知ったのは、2016年9月から翌月にかけて朝日新聞に連載された「いま子どもたちは」シリーズ中の「唯さんのいた日々」によってだった。この記事を保存していたので、本稿の執筆にあたっては、この記事も参考にしている。
また、最近、偶然、ユーチューブの動画でステージ上の彼女を観て、気丈な少女がいるなと思った。しかし、そのときは前に新聞記事で見た少女だとは気付かなかった。その直後の2017年10月に、朝日新聞に「(いま子どもたちは)唯さんのいた日々 番外編 『みんなとステージに』書き残す」(※)が掲載されたのを見て、ああ、あの少女だったかと気付いたのである。
※ 朝日新聞2017年10月8日「(いま子どもたちは)唯さんのいた日々 番外編 「みんなとステージに」書き残す」
この少女は小児がんで片脚を失い、治療を受けながらも、自己実現のためにステージで活躍していた。産業保健の世界に身を置く者の立場からも、この健気な少女とその仲間たちに学ぶべきことは多いように思う。本稿では、彼女が我々に遺したものについて、述べたいと思う。
2 木村唯さんのたどった足跡
(1)花やしき少女歌劇団
株式会社花やしきが、「花やしき少女歌劇団」を創設したのは2005年のことである。この歌劇団は、浅草花やしき内にあるステージで歌やダンスを披露するほか、地域を中心に様々なイヴェントなどにも出演する、いわゆる「ご当地アイドル」としての活動を行っている。
木村唯さんは、小学3年生だった2006年に、2期生として同歌劇団に入団した。そして、平尾昌晃氏にその才能を見出され、歌劇団の他の2人のメンバーとともに、「乙女co"coro」というユニットでも活動を始めている。
株式会社花やしきは、歌劇団のステージの模様を積極的にユーチューブにアップしており、またファンが写真や動画をWEBに公表することを禁止していない。このため、木村唯さんのステージの様子はユーチューブに多数アップされており、「乙女co"coro」で検索すると、歌のうまい元気な3人の少女の姿を観ることができる。
(2)発病
しかし、中学3年の2012年8月、右足が痛み始める。順天堂大学の附属病院で検査し、10月になって小児がんであると判明する。順天堂大学の病院で、抗がん剤による治療を行ったが、副作用による苦痛が伴うにもかかわらず病状は好転しなかった。一時は、治療を最低限のものにして、余命を意義あるものにするということも、病院側から提案されるところまでいく。
しかし、国立がん研究センターにセカンドオピニオンを依頼したところ、右脚の切断によって助かる可能性を指摘された。これを聞いた木村唯さんは、右脚の切断を決意する。だが、その前に一度だけステージに立ちたいと希望した。この希望は、2013年6月23日に実現する。
この6月23日のステージの様子は、ユーチューブに数本の動画がアップされている。この日の歌劇団の演目の4曲のうち、「私たちにできること」を、木村唯さんは舞台中央で椅子に座って歌っている。また、姉妹のユニットが三味線と歌を演じる「葵と楓の歌謡ショー」では、バックで椅子に座ったままダンスを披露した。
木村さんは、笑顔で楽しそうに演じており、その表情からは、一か月後(施術は7月18日だった)に重大な手術が控えている少女だとは思えない。事情を知らない観客が見れば、椅子に座っているのは単なる演出だとしか思わないだろう。
【私たちにできること】より
私達にできること、太陽のように歌うこと。
私達にできること、風のように踊ること。
こころがぎゅっと苦しくなったら、がまんしないで一緒に泣こう。
あなたがまた歩き出せるそのときまで。
※ 花やしき歌劇団オリジナルソング「私たちにできること」
仲間たちとの信頼関係も彼女を支えていたのだろう。木村唯さんが椅子に座っていることを目立たせないためだろうが、ほかにも2人の団員(※)が椅子に座って歌っている。
※ そのうちの一人は元乙女co"coro のメンバーで、後に眠らない兎のボーカル、現在は AliA のボーカルで活躍するAYAMEさん(吉田紋女さん)。
木村唯さんが「私たちにできること」を歌っていて、両手を胸の前で交差させて身体を前に傾けたとき、振り付けがややオーバーだったからなのか、AYAME さんが、一瞬ためらうようなそぶりをした後で、木村唯さんの背中に心配そうにそっと手を置いた。そのとき、振付かもしれないが舞台で踊っていた仲間が一斉に木村唯さんの近くに寄っている。
木村唯さんが、驚いたように後ろを振り返り、大丈夫だよというように笑って見せると、その後は何事もなかったかのように歌とダンスが続いた。何気ないシーンではあるが、木村さんと仲間たちの強い絆が感じられる。
歌が終わったとき、さかんに木村唯さんに声援が飛んだ。そのとき、感極まったのか、一瞬泣きそうな表情をしたが、すぐににっこりと笑って、その後の演目に合わせて両手を振りながら、仲間=後にユニット<Summer!フラワー>を組む大橋妃菜さんに椅子を引かれて退場した。
おそらく、木村さん自身も楽しかったということもあるのだろうが、観客を楽しませたいという意識があったのだろうと思う。がんの治療と脚の切断という状況にあっても、彼女は一人のプロとして輝いていたのだ。
(3)手術とステージ復帰
手術が終わり、劇団側から、花やしきに来るように勧められたとき、木村唯さんは逡巡したという。自らの姿を見て年少の団員が怖がるのではないかと思ったらしい。だが、実際には、少女たちは、ただ純粋に木村さんに会いたがっていたのである。
木村唯さんが劇団へ顔を出したとき、木村さん自身も以前と変わりない態度でいたようだが、劇団の少女たちも木村唯さんに会えたことを喜び、以前と変わりなく迎えた。
こんなとき、大人であれば誰でもどのように迎えたらよいかと身構えるものだと思うが、かえって子供の方が、純真なだけに普通に接することができるのかもしれない。そして、木村唯さんにとってもその方がよかっただろう。誰でも、病気のために特別扱いされたりするのは、気疲れするものだ。
ステージへの復帰についても、木村唯さんは観客が不快に思うのではないかと心配したようだ。このような状況で、自らのことよりも、観客の気持ちを考えることができるのは、やはり木村さんには、天性のエンターティナーとしての資質が備わっているからであろう。
もちろん、そのような心配は杞憂だった。そのような状況で頑張っている少女を見て、不快に思うような者がいるはずはない。
手術後の最初のステージは、手術から約4か月後の12月8日である。ユーチューブでこのステージも観ることができるが、半年前の6月23日のときとは異なり、このときは最初から最後まで舞台の上に出ている。キャスター付きの椅子に座り、腰から足首まで膝掛をかけているので、事情を知らない観客は椅子に座っている理由に気付かなかっただろう。
そして、木村唯さんは、この後も積極的に舞台活動をこなしてゆく。ユーチューブには、私が見つけただけでも、翌月までだけで12月22日、1月5日、1月12日と3回のステージの様子がアップされている。1月12日のステージでは、膝掛は垂らさずに、右足がないことをあまり隠さないようにしている。本人も吹っ切れたのかもしれない。
(4)再発
だが、本書によると2014年1月には全身への再発が判明する。フジテレビの番組「<NONFIX>それでも生きて歌いたい」で、国立がん研究センターの川井医師が、「血液を介して様々な場所に病巣ができてしまい、手術では取り除くことができず、抗がん剤による治療=延命治療を続けざるを得ない」と述べておられる。
本人も、ほぼ正確にその病状は知っていたようだ。状況を受け入れて、治療を受けつつ、ステージ活動を続けようとしたのだろう。
8月の定例のステージで、可愛いベイビーを元気いっぱいに歌った後、小学生高学年くらいの団員が何か意を決したような顔つきをして木村さんに近づき、その肩にそっと手を触れた。すぐに手を放して一瞬泣きそうな表情をしたが、後輩たちも心配していることがよく分かるシーンである。
(5)治療を受けながらの活動
手術後の初ステージである2013年12月8日から、歌劇団としては最後のステージとなる2015年4月19日まで、木村唯さんは積極的にステージをこなしてゆく。ユーチューブには木村唯さんのこの間のステージ活動の様子が、数多く、アップされている。
また、最後の舞台となった2015年6月28日の2nd special liveについてもいくつかの動画がアップされている。
その間、2014年3月には義足をつけるようになり、6月29日のステージでは、両側から仲間の団員と手をつないで立って、花やしきの花たちを歌劇団の少女たちのイメージに重ねた「空へ」を歌っている。このとき、木村唯さんの後ろでは大柄な団員が歌っていて、何かあったときには支えられるようにしていたという。
さらに7月6日のステージのときは、ステージ中央付近で、他の団員に支えられて立ち上がり、あとは他の団員の支えを受けずに一人で立っている。もちろん足の動きはないが、手話をモチーフにした振り付けで「空へ」を歌った。
このとき、よく見ると義足で黒いものを踏んでいる。本書によると、義足の長さが合わないために、ペーパータオルをビニールテープで巻いたものを他の団員が足の下に差し入れているのだそうだ。
仲間の団員に支えられての活動だったのである。
また、活動の合間には映画を観たり、沖縄へ行ったり、ディズニーシーへ行ったりと、普通の高校生のように青春を謳歌してもいたようだ。
(6)ステージで将来の夢を語る
2015年3月14日のFriendship Liveのころになると、義足をつけて舞台に立つ様子もしっかりしてきている。かつてのように大柄な団員が木村唯さんの近くで歌いながら、万一木村唯さんが倒れたときに備えるというようなこともなくなった。
このLiveでは、ステージで立ったまま他の4人の団員と「空へ」を歌い、その後で、全員が自己紹介をしている。そのとき、将来の夢を聞かれ「皆さんに気持ちを伝えられる歌手になりたい」と答えている。
自らの病状を知りながら、将来の夢を笑顔で語れるのは、その瞬間を有意義に生きているからこそであろう。歌劇団の仲間には病状は伏せられていたようだが、かえって他の団員の方が動揺して何度も言い間違えたりしている。無理もあるまい。その団員は木村唯さんと最も仲が良く、しかもまだ中学生なのだ。
(7)最後のライブ
2015年4月19日、ステージで「一葉桜の歌」と「空へ」を歌う。しかし、この日は座ったまま、膝には膝掛を掛けていた。義足を着けると痛みが出るようになっていたため、着けていなかったのだ。
痛みをとるために、このステージの後で、再び腫瘍の摘出手術を行うことが決まっていた。手術をしても延命の役には立たない。だが、痛みが取れれば、またステージで立てる。そう思ってのことだったのだろう。
しかし、5月の末には抗がん剤の治療が終わりを告げられる。効果がないと判断されたのだ。今になってみれば、それが意味することは明らかだろう。さらに6月5日には肺への移転が知らされる。咳が出て、歌どころではなくなっていたのだ。
しかし、6月28日には、相棒の大橋妃菜さんとのユニット"SUMMERフラワー"のLIVEが予定されていた。このLIVEには仲の良かった団員3人も共演する。
フジテレビの番組の中で、このLIVEのための練習中に、仲間から「将来の夢のために7月で退団する」と報告されるシーンがある。このとき、木村唯さんは「(最後のステージに一緒に)出れないじゃん」と言って泣き出してしまう。仲間がそれぞれの夢のために活動していることが、自らの状況と重ね合わせて辛かったのかもしれない。
この仲間の最後のステージでは、大橋妃菜さんが泣きそうになりながらも無理に笑って「空へ」を歌っていた。木村唯さんのことを想っていたのだろうか。
木村唯さんはこのLIVEを成功させたかった。そして、肺への転移で歌どころではなかったはずだが、3時間半のLiveを成功させる。このLIVEの様子もユーチューブで観ることができる。かなりの長時間のLIVEだが、前後編に分けて省略なしでアップされている。また、フジテレビの「<NONFIX>それでも生きて歌いたい」でも、準備作業やLIVE終了後の様子などが紹介されている。
木村唯さんは途中なんどか咳き込んで、仲間から「大丈夫?」と気遣われたりしているが、2人とも目立たないように気を付けていたようだ。
いままで本稿で記してきたことから、読者の方は、LIVEの会場を湿っぽいもののように想像されるかもしれない。だが、そのような雰囲気は全くない。咳が出て歌どころではなかったはずだと思うが、そのような気配は微塵も感じられない。本当に楽しそうに演じており、見ている方も楽しくなってくるような舞台なのだ。
LIVEが終わった後で、他の団員は、もう一度やろうと木村唯さんと約束しあったという。だが、その約束を果たすことはできなかった。
それからわずか4か月後の10月25日、団員の少女たちは「空へ」を歌って木村唯さんを送った。
(8)木村唯さんの遺したもの
同情などは木村唯さんにはふさわしくないだろう。おそらく本人も望んではいまい。木村唯さんは、小児がんに罹患し、片脚を失いながらもその人生を意義のあるものとしたのだ。
厳しい治療を受けながらも、彼女はその夢=気持ちを伝えられる歌手=として活動していたのである。あまりにも短すぎたが、その18年間は、彼女にとって幸福なものだったと信じたい。
最後の LIVE で5人で熱唱した歌の中に、AKB48(TeamK) の「青春ガールズ」があった。何を歌うかは自分たちで選んでいる。それが歌劇団の活動をする自らの気持ちだったのだろう。
【青春ガールズ】より
(団員)熱くなれりゃ 勝ちってことさ
(大橋さん)たいていの人たちは
(全員)燃えるものが見つからないんだって…
(・・・中略・・・)
(全員)何歳になっても まだ 青春!
(全員)私ら 死ぬまで ずっと 青春!
(大橋さん)「死んだら、どうなるんですか?」
(木村さん)「それでも、青春は続くんだ」
(全員)大人になんかなりたくないよ
(全員)このままがいい
(全員)人生は短いんだ
(全員)好きにさせろよ
(・・・中略・・・)
(全員)今を逃すんじゃねえ!
(全員)今をもっと生きるんだ!
※ 青春ガールス歌詞より 作詞:秋元康
彼女の生き方は、テレビ番組や本書の他、WEBなどでも知られるようになりつつある。多くの難病を抱える子供たちや若者に、今も希望を与え続けているはずだ。その意味でも、木村唯さんの遺したものは大きいと思う。
3 産業保健の場で木村唯さんから何を学ぶか
(1)職場への受け入れ方
産業保健の世界においては、ここ十数年、心の健康問題が重要な課題となっており、心の健康問題で休業した労働者を職場へどう復帰させるかが問題となっている。
もちろん木村唯さんは心の健康問題とは無縁だった。ユーチューブの動画を見る限り、元気いっぱいの高校生にしか見えない=というより、実際にそうだったのだろう。もちろん、辛いと思うことはあったはずだ。自分の辛さを外に出さない性格だったに違いない。
木村唯さんが復活して間もない頃のステージで、他の団員が数名でタップを踏みながら「上を向いて歩こう」を歌っているところへ、キャスター付きの椅子に座った木村唯さんと、椅子を押す比較的年長の少女の2人が舞台中央へ登場したことがある。そのとき、椅子を押してきた少女がソロで歌う「悲しみは星のかげに」の声がかすれていた。泣いていたのだ。木村唯さんは、驚いてこの少女を振り返ると、励ますように笑いかけ、「悲しみは月のかげに」と自ら歌ってカバーした。
さて、職場におけるサポートの在り方は、心の健康も体の健康も基本はそれほど変わるわけではない。要は、治療の機会を保障するとともに、本人ができないことは援助し、あとは普通に接するということなのだ。
本書やいくつかの資料によれば、歌劇団の団員は、木村唯さんに自然に接していたようだ。
ユーチューブの動画を観ると、木村唯さんは、姉妹のユニット"葵と楓"ともよく共演している。そこへSUMMERフラワーとして相棒の大橋妃菜さんが加わることも多い。
あるとき、"葵と楓の歌謡ショー"に木村唯さんと大橋妃菜さんがゲスト出演し、木村唯さんが金属製の義足を付けて松葉杖で登場したことがあった。このとき4人は舞台トークで、将来の夢を語り合っている。
ちょっと考えると、木村唯さんに対する配慮が欠けているように思えるかもしれない。しかし、そんなことを言えば木村唯さん自身が反発するだろう。彼女たちは木村唯さんと仲が良く、お互いに支えあっているのである。むしろ、変に気を遣われる方が負担になっただろう。
また、大橋妃菜さんは、このときも木村唯さんの義足の高さを調節するため、義足の下にペーパータオルをテープで固めたものを入れたり、松葉杖を片づけたり、なにくれとなく世話を焼いている。このようなさりげない気遣いが、木村唯さんの活動を支えていたのだろう。
歌劇団の団員たちの木村唯さんへの接し方は、重い病気を抱えて職場へ戻ろうとする人々にとって、理想的な形ではないかと思う。この少女たちはそれを誰に教えられることもなく、実際に行っているのだ。信頼関係があるからこそ、こういったことができるのであろう。
また、木村さんと大橋さんで、Kiroroの名曲「生きてこそ」を歌ったとき、大橋さんの方が辛かっただろうと思う。だが、それをあえて歌うのは彼女たちにとって、それが前に向って生きるということだからであろう。生半可なことでできることではない。
重い病気で治療をしている労働者を職場へ迎えるときに、この団員たちの対応には学ぶべき点が多いと思う。
(2)治療との両立
また、最近では治療と職業生活の両立が、産業保健分野にとって大きな課題となっている。どのような難病であっても、生きている限り、誰もが、その人生を意義のあるものにしたいと考えている。そして、生きていれば新たな治療法が見つかることもある。
もちろん、治療を受けながらも働きたいと思う者もいれば、ゆっくりと過ごしたいと思う者もいるだろう。それは各人が選択すればよいことであって、他人がとやかく言うべきことではない。国や医療機関はそれぞれの選択を支援することが役割であろう。
だが、職場の産業保健部門はそうではない。治療を受けながらも職業を通して自己実現を図りたいと思う労働者に対して、活躍の場を保障することこそが役割であって欲しいと思う。
もちろん、特別扱いをする必要はない。企業は企業として、それらの人々の能力を活用すればよいことだ。それぞれの能力を有する労働者の能力が発揮できるようにすることは、企業にとっても利益になるはずなのである。
欠けた部分をサポートし、治療を保障するとともに、彼らが能力を発揮して会社に貢献することを要求すればよい。それこそが産業保健部門に期待されることなのである。
木村唯さんも、魅力的なエンターティナーだからこそ、活躍の場が与えられたのではなかろうか。歌劇団は18歳までで卒業(退団)するのが決まりだが、木村唯さんには特例としてその後も残らないかと会社側から打診があったようだ。やはり、その歌唱力やダンスの演技力が買われてのことであろう。
ステージは1週間に一度のことであり、また多くの団員で演じるステージなので、一人の出演の間が空いてもそれほど深刻な問題はないだろうから、一般企業の管理職や専門職などに比較すれば、治療を受けながらでも続けやすい条件はあったとは思う。しかしながら、これだけの大手術を繰り返しながら、雇用(ではないかもしれないが)を続けたのは、やはり会社側の理解がなければできなかったであろう。
この点、株式会社花やしきには敬意を表したいと思う。
4 最後に
彼女がステージで立ちあがって歌った「空へ」にはこうある。
みんな君達が教えてくれたつらいこと悲しいこと
僕たちには大切なんだ
乗り越える勇気を忘れない
※ 花やしき少女歌劇団オリジナル「空へ」より
この言葉が、難病を抱えて生き続ける多くの子供たち、若者たちに届いて欲しいと思う。
最後に、木村唯さんのステージにおける活動とその生き方、またそれを支えた仲間たちに対して、称賛と拍手を贈りたい。そして、Summer!フラワーのオリジナルソング「思いでの足跡」を紹介しておきたい。
【追記】歌劇団その後
花やしき少女歌劇団は、2020年の春以降、新型コロナ禍の影響で活動を中止していたが、2022年7月に正式に活動を終了したとのことである。結局、リアルで観劇する機会はなかった。
木村唯さんが亡くなった後、数年間は新規団員を採用していなかった。このため、団員の数がかなり減っていたのである。そのこともあり、コロナ禍で活動を停止後に2年以上を経て退団(卒業)年齢に達する団員が増え、活動を維持できなくなったのだろう。
しかし、その団員は舞台活動を経験しているだけあって、しっかりした子供たちだと拝察する。それぞれの夢に向かって、これからも着実にその人生を歩んでいくことだろう。