事務所衛生基準のあり方に関する検討会の報告書が公表され、それに基づいた安衛則と事務所則の改正案が労働政策審議会に諮問されて妥当との答申が出されました。
ところが、本改正案についてSNSで大きな批判が起き、1500件程度のパブコメへの意見が提出されるなど、一部が社会問題化しています。
この改正は、多くの事業者にとって関係が深いものです。その内容と批判について紹介します。
- 1 事務所則及び安衛則の改正準備が進んでいる
- 2 報告書が示した改正の方向
- (1)トイレの設置についての規制の緩和
- (2)休養室等についての規制の緩和
- (3)照度
- 3 SNSにおける批判の動きとSOGI差別
- (1)私の立場
- (2)SNSの批判の対象
- (3)批判の経緯
- (4)批判の理由と差別者による利用
- (5)SNSと世論の形成
- 4 その後の動き
1 事務所則及び安衛則の改正準備が進んでいる
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最終改訂:
※ イメージ図(©photoAC)
2021年3月24日に「事務所衛生基準のあり方に関する検討会」の報告書が公表された。
この報告書は、専門家の他に労使の代表も入った厚生労働省の委員会が提出したものである。労使が承認しているものなので、そのまますんなりと安衛則及び事務所則の改正につながる可能性が高い(※)ものと思われた。
※ かつては、労使の代表が入った厚労省の委員会で報告書が出されると、審議会でもほとんど異論は出されずに法令改正までそのまま進んだものである。そのことの是非はここでは述べないが、近年では与党から修正意見が入ることがしばしば起きるようになってはいる。しかし、今回の改正は、与党が反対するようなものではなかったのである。
事実、7月28日には第139回労働政策審議会安全衛生部会安全衛生分科会において改正省令案要綱が諮問されて、妥当である旨の答弁がなされた。
ところが、この改正について、それまでの労働安全衛生関係法令の改正では考えられないような事態が起きたのである。それは、SNSによる反対運動とパブコメへの1,500件程度の意見の提出である。
最終的に、改正省令の公布は、当初の予定の3か月遅れの12月1日となった。その話に入る前に、今回の改正内容の概要を振り返ってみよう。
2 事務所則等の改正の方向
今回の改正の主なものは、以下の3点である。
(1)トイレの設置についての規制の緩和
これまで、安衛法令(安衛則及び事務所則)では、事業場のトイレは男女別に、従業員数に応じた最低数が定められていた。もちろん男女共用のトイレの設置が禁止されているわけではない。
しかし、仮に男女共用の多機能トイレを設置したとしても、法令のトイレの数に含まれないため、男女別にそれぞれのトイレを基準通りの数だけ設置しなければならなかったのである。
詳細は、労働政策審議会の資料を参照して頂きたいが、今回の改正では、以下の3点について規制を緩和された。
- ① 男女共用の独立個室型のトイレ(※1)(バリアフリートイレを含む。)は、一定の条件を満たせば法令上の便所として取り扱う。
- ② 同時に就業する労働者が常時10人以内である場合は、男性用と女性用を区別しない独立個室型のトイレを設けることで足りる(※)。
- ③ それ以外の事務所において、男性用便所、女性用便所に加えて設ける独立個室型のトイレを1つの便所として取り扱う。
※1 独立個室型のトイレとしたが、法令上は「独立個室型の便所」とされ「男性用と女性用を区別しない四方を壁等で囲まれた一個の便房により構成される便所」と定義されている。詳しくは労働政策審議会の諮問文を参照して頂きたい。
※2 現行安衛則第628条第1項第一号及び現行事務所則第17条第1項第一号は、トイレの設置は「男性用と女性用に区別すること」としている。なお、事務所については、一般法である安衛則ではなく特別法である事務所則が適用となる。
①と③の改正については、トランスジェンダーやジェンダーノンコンフォーミングの方にとって、ささやかではあるが朗報だと思う。事前に行われた調査でも、男女共用トイレを望む声が多かった。
検討会において、そのことが考慮されての結論である。報告書には、SOGI(LGBTQ)について、一言も触れられてはいない(※)が、その結論は大いに評価したい。
※ そのことについて、ここであれこれ言うつもりはない。むしろ、右翼から批判を受けないために、書かない方が良いという判断もあり得るとも思う。第2回事務所衛生基準のあり方に関する検討会において、構主任中央労働衛生専門官が「多機能トイレその他独立個室のタイプのトイレについて、(中略)障害者、トランスジェンダーなどに対する配慮として考えられることも視野に入れる必要があります
」と述べておられることは高く評価したい。
シスジェンダー(※)の方には、理解できないかもしれないが、トランスジェンダーやクエスチョニングで、トイレで不便を感じるという方は多いのだ。もちろん、カミングアウトしていない場合、男女共用のトイレができたからと言って完全な解決になるわけではないが。
※ 生まれたときに割り当てられた性と、性自認が一致している人。
(2)休養室等についての規制の緩和
報告書では、休養室・休養所については、専用のスペースでなくても、随時利用が可能となるよう機能の確保に重点を置くべき
とされている。ほとんどの事務所で、専用の休養室・休養所を使用する従業員が少ない現状では、妥当な改正であろう。
形式的には規制緩和のようにみえるかもしれないが、長時間労働や超過密労働、VDT作業の連続化が進む中では、好ましい提言だと言える。この結論を受けて、多くの事務所に休養できるスペースの設置が望まれる。
なお、本件については、省令の改正は行われない。通達による運用ベースで行われる。
(3)照度
また、報告書は、一般的な事務作業における作業面(机上)の照度を150ルクス以上から300ルクス以上に、付随的な作業(粗な作業)における照度を70ルクス以上から150ルクス以上に見直すことが妥当である
としている。
作業の区分 | 現行基準 | 改正案 |
---|---|---|
精密な作業 | 三百ルクス以上 | 三百ルクス以上 |
普通の作業 | 百五十ルクス以上 | 三百ルクス以上 |
粗な作業 | 七十ルクス以上 | 百五十ルクス以上 |
※ 「普通の作業」、「粗な作業」の用語はそれぞれ「一般的な事務作業」、「付随的な作業」に変更され、また、「精密な作業」についての基準はなくなる(一般的な事務作業と同じ基準となる)可能性がある。
事務所則第10条(及び安衛則第604条)の照度の基準は、時代遅れの数値であるとよく指摘されてきた。現実に、事務所則の基準ギリギリでは、暗くて作業など不可能だったのである。結果として、違反などあり得ないような基準であった。
今回の改正は事務所則の改正のみで安衛則の改正は行われないが、それにしても当然の改正であろう。
3 SNSにおける批判の動きとSOGI差別
(1)私の立場
※ イメージ図(©photoAC)
SNSの抗議活動について説明する前に、まず、私の立場を明確にしておく。この項で私が理解できると言っているのは、「MtFを含む女性(※)」が感じる男性と共用でトイレを使用することの不安感である。
※ MtFとは、生まれたときに戸籍に割り当てられた性が男性だが、真実の性は女性である方のことである。「トランスジェンダー女性」といわれることもあるが、「通常の女性」とは異なる女性というニュアンスがあり、当事者以外はあまり使うべきではない用語だと思う。
MtFは女性である。私はこのことを当然の前提としている。MtFの方が女性トイレを使用することは当たり前のことなのである。このことは明言しておく(※)。
※ 松岡宗嗣 2020年11月13日「『君は女ではないと言われているようで...』トランスジェンダー女性教諭が女子トイレを使えない理由とは」、弁護士ドットコムニュース 2019年12月12日「『女子トイレ制限』は違法、勝訴した性同一性障害の職員『アクション起こさないと変わらない』」等を参照されたい。
また、小中学生を対象としたテレビドラマだが、NHK の「ファースト・デイ わたしはハナ!」も参考となる。
(2)SNSの批判の対象
さて、SNSによって批判が起きたのは、2の(1)の②に示した、「同時に就業する労働者が常時10人以内である場合は、男性用と女性用を区別しない独立個室型のトイレを設けることで足りるものとする」という点である。
この改正案は、マンションの1室を事務所にしているような場合に、建物にトイレが1つしか設置されていない場合もあり、現行法令のように男女のトイレを区別して設けることは非現実的と考えられたためであった。いわば、現状追認の規制緩和であり、現状を変更しようというわけではなかったのである。
(3)批判の経緯
ところが、労働政策審議会が改正の諮問を妥当であると答申する直前に、SNSで批判が巻き起こったのである(※)。
※ 毎日新聞2021年08月15日「女性用トイレが消える? 厚労省の議論が招いた混乱と不安」など
最初は、Twitter(現X)での「女子トイレの危機です」というtweet(※1)から始まり、「#厚労省は職場の女性用トイレをなくすな」(※2)というハッシュタグがついたtweetが拡散され、一時的にではあるがトレンド入りする事態となったのである。
※1 このtweetをしたアカウントは、SOGI(LGBTQ)に対する差別発言を繰り返しているということは指摘しておくべきであろう。私は、女性用のトイレがなくなると困るという多くの女性たちの不安は理解できるが、このアカウント(人物)の主張は支持しない。
※2 このハッシュタグを拡散しているTweetの中には、露骨なトランスジェンダーへの差別を煽っているものもある。このため、このハッシュタグへの批判が多かったことも事実である。
このような差別発言は、女性の不安感を利用した悪質なヘイトと言うべきであり、許されるものではない。そのためか、一般にインフルエンサーのフェミニストは、このハッシュタグを批判又は無視する方が多かった。そして、#KuToo のように多くの女性の間に広まることもなかったのである。
そして、SNSでの大規模な拡散は、パブコメへの意見提出につながり、1,500件程度の意見が提出された(※)のである。
※ 弁護士ドットコムニュース 2021年09月05日「『小さな職場は男女共用トイレもOK』省令改正に反発、パブコメ1500件 現場で続けてきた我慢」による。
なお、厚労省の髙倉労働衛生課長は、第139回労働政策審議会安全衛生分科会において、この経緯を「6月28日から1か月間パブリックコメントを実施しておりまして、現在のところまだ精査中ですが、約1,500件の御意見を頂いています。7月25日にTwitterで『厚労省は女性用トイレをなくすな』という意見提出を呼び掛けるようなツイートが行われており、これが影響しているのではないかと推測しておりまして、多くの意見が、このツイート後に提出されたものとなっております。これらの意見のほとんどがトイレに関するもので、『女性専用のトイレを廃止すべきではない』、『男女共用トイレの設置に反対』といった内容がほとんどでして、反対の理由としては、性犯罪の増加や女性のプライバシーの侵害を懸念するといったものが多くを占めておりました
」と説明している。
(4)批判の理由と差別者による利用
批判の理由は、男性と共用のトイレを使うことへの女性たちの不安感である。この事務所則等の改正問題は、それまで労働安全衛生の問題とあまり関わらなかった分野の人々の間にも、ごく一部にではあるが拡がっている(※)。
※ 例えば千田有紀武蔵大学教授「小さな会社こそ、男女別トイレが必要である」など。なお、千田氏は、その論稿「『女』の境界線を引きなおす」が、トランス女性に対する排除の理論であるとして=事実その通りだが=批判を浴びている人物であることを指摘しておく。
男性と共用でトイレを使うことについての少なくない女性の不安感や忌避感は理解できる。しかし、SOGIへの差別者が、この不安感に乗じてヘイトに利用し、「厚労省が女性用トイレを廃止する」という誤解を受ける(※)ような情報を流したため、まともな議論に成長することがなかったのである。
※ 厚労省の髙倉労働衛生課長は、第139回労働政策審議会安全衛生分科会において、この制度改正の趣旨を「今回の改正は、男女別という原則は維持した上で、建物の構造上、男女別での設置が困難な小規模事業場における例外、そして、男女別を設置した上で付加的に設ける場合のカウント方法について規定するものですので、パブリックコメントで寄せられた意見の中に多かった『女性専用トイレを廃止する』とか『共用トイレの設置を推奨する』といったことを目的としているものではありません
」としている。
なお、同課長はさらに、「この点はパブリックコメントを多数頂いておりますから、精査させていただいた上で、今後、男女別が原則であるということ、衛生やプライバシーの確保が前提であること、それら誤解がないように、通達等で丁寧に周知していきたいと考えております
」と説明している。これを読む限りでは、改正案はそのままの形で通し、制度の趣旨を広報するという形でパブコメに対処するということのようである。
そればかりか、今回の抗議は、トランスジェンダーに対する差別意識を煽る者が一部に含まれていることで胡散臭いものが感じられるようになってしまった。
そして、それらが背景となって広範な国民の共感も得られることはなかったのである。
(5)SNSと世論の形成
私自身、労働安全衛生関係法令で、SNSで反対運動が広まった例は他に知らない。
しかし、一般論としては、SNSは国民の意見表明の手段として、様々な分野で定着し始めている。そのことは、労働安全衛生の分野も例外ではなく、賛成や反対の意見が様々な分野の人々の間に瞬時に広まって国民の意見形成の一翼を担う可能性を秘めたものといえる。
4 その後の動き
この法令改正は、照度に関する改正(※)を除き、2021年の9月上旬の公布を目途としていた。そして、公布の日に直ちに施行されることが予定されていた。基本的に、規制緩和なので、公布の日と施行の日をずらす理由がないのである。
※ 照度の改正は2022年(令和4年)09月01日施行を予定していた。
おそらく、行政の担当者は、粛々と改正作業を進めていけばよいと思っていたであろう。通常であれば、労使団体が了承すればあとは事務的に作業が進むのである。私自身そうなるだろうと予測していた。
しかし、SNSによる反対運動の盛り上がりと、それを受けたパブコメへの多数の意見提出によって、改正作業が遅れたのである。
結局、原案通りではあるが、当初の予定の3か月後の12月1日に、「事務所衛生基準規則及び労働安全衛生規則の一部を改正する省令」(令和3年12月1日厚生労働省令第188号)が公布され、併せて関係通達(令和3年12月1日基発1201第1号)が発出された。
なお、併せて、令和3年 12 月1日基発 1201 第7号「「情報機器作業における労働衛生管理のためのガイドラインについて」の一部改正について」により、令和元年7月 12 日基 発 0712 第3号「情報機器作業における労働衛生管理のためのガイドラインについて」(新旧対照表)も改正されている。
今回の改正が遅れた原因として、労使の枠を外れた一般の国民の感性を行政が把握しようとしなかったことが背景にあろう。一般国民がSNSで批判を起こすことは想定していなかったのである。
最終的に3か月遅れて、改正症例が公布されたが、労働安全衛生の分野といえど、労使以外の一般の国民の声を無視することはできないという大きな教訓を残したといえよう。
私自身は今回の改正案の男女共用のトイレの拡大はダイバーシティの観点から歓迎したいと考えている。MtFを含む多くの女性たちが安心でき、またカムアウトしていないトランスジェンダーの方にとっても働きやすい職場を実現できる形での運用が行われることを期待したい。
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