産業医が労働者から訴えられた「K法人事件」について判決の問題点を論じています。
筆者は、この判決について一方的な先入観から判断をしたのではないかとの問題意識を有しています。
1 本件の特徴
執筆日時:
最終改訂:
大阪地判平成23年10月25日大阪市K協会事件は、労働者が産業医を訴えて産業医(被告)が一部敗訴した例である。
判決文によると、「自律神経失調症により休職中であった原告が,勤務先の産業医である被告との面談時に,詰問口調で非難されるなどしたため,病状が悪化し,このことによって復職時期が遅れるとともに,精神的苦痛を被ったとして,不法行為による損害賠償請求権に基づき,逸失利益の一部の賠償及び慰謝料の支払並びにこれに対する不法行為の日である平成20年11月26日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めている事案である」とされている。
これまでも労働者が産業医を訴えた例として、例えば、千葉地判平成12年6月12日瀧川化学工業(HIV解雇)事件や、札幌地判平成16年3月26日北興化工機事件があるが、これらの場合は会社と産業医の双方が訴えられており、後者では被告側が勝訴している。また、前者についても訴えられた医師は、産業医というよりも、健診機関の医師という立場で訴えられたケースである。
一方、K協会事件の場合、訴えられたのは産業医のみであり、会社や上司は訴えられていないという、他に類例をみることができない事例である。
なお、本件は被告側から控訴されたが、控訴審における結果については公表されていない。私自身はまったくの個人的なルートで結論を知ってはいるが、ここに控訴審の結果を記述することは差し控える。ただ、控訴審判決がされていないことだけは記しておく。
2 事件の概要
判決によると、事件の概要は以下のようなものである。
原告は、昭和62年からK協会に勤務していたが、自律神経失調症により、平成20年6月30日から平成21年4月26日まで休職していた。なお、この間、K協会の規定に基づき,給与、扶養手当、地域手当、住居手当の80パーセントの支給を受けている。そして、被告はK協会の産業医である。
原告は、休職中2週間に1度のベースでクリニックに通院し、自宅療養をしていたが、平成20年11月に入って、K協会から産業医(被告)による面談を打診され、これに応じることとした。
被告はK協会から依頼を受け、K協会近くの喫茶店で、K協会の係長の同席の下で原告と面談した。
被告は,原告が自律神経失調症で休職していることは説明を受けて知っていたが,勤務先での原告の仕事の内容や原告の詳しい病状については説明を受けていなかった。
被告は、原告を見た印象で、原告の状態は悪くなく、もう一歩で職場復帰できると感じていたため、可能な部分から前向きな生活をするよう励ませばよいと考えて、「それは病気やない、それは甘えなんや。」、「薬を飲まずに頑張れ。」、「こんな状態が続いとったら生きとってもおもんないやろが。」などと力を込めて言った。
原告は、平成20年12月2日、竹川内科クリニックで診察を受けた。原告は、診察を担当した竹川医師に対し、本件面談で病状が悪化し、抗不安剤を服用することが増えた旨を訴えた。
また、原告は、平成20年12月5日、クリニックで、従来は改善傾向にあったが、本件面談後、明らかに症状が悪化しているとして、平成21年1月31日まで自宅療養が必要である旨の診断を受けた。
3 裁判所の判断
このような事実関係を認定した上で、裁判所は以下のように判断した。
被告は,原告が自律神経失調症であり、休職中であるという情報告が与えられた上で、原告との面談に臨んでいたにもかかわらず、原告に対し、薬に頼らず頑張るよう力を込めて励ましたり、原告の現在の生活を直接的な表現で否定的に評価し,その克服に向けた努力を求めたりしていたことが認められる。
被告には、産業医として合理的に期待される一般的知見を踏まえて、面談相手である原告の病状の概略を把握し、面談においてその病状を悪化させるような言動を差し控えるべき注意義務を負っていたものと言える。そして、産業医には,メンタルヘルスにつき一通りの医学的知識を有することが合理的に期待されるものというべきである。
たしかに自律神経失調症という診断名自体、交感神経と副交感神経のバランスが崩れたことによる心身の不調を総称するものであって、特定の疾患を指すものではないが、一般に、うつ病や、ストレスによる適応障害などとの関連性は容易に想起できるのであるから、自律神経失調症の患者に面談する産業医としては、安易な激励や、圧迫的な言動、患者を突き放して自助努力を促すような言動により、患者の病状が悪化する危険性が高いことを知り、そのような言動を避けることが合理的に期待されるものと認められる。
してみると、原告との面談における被告の言動は、被告があらかじめ原告の病状について詳細な情報を与えられていなかったことを考慮しでもなお、上記の注意義務に反するものということができる。
4 判決について
この事件ついて、私の知り合いの法律の専門家はほとんどの方がこの判決に賛意を示すが、産業医は同意できないとする方が多い。産業医が敗訴しているのだから、産業医が同意できないと考えるのは当然と思われるかもしれないが、必ずしもそのような理由だけではないようだ。
(1)この判決に対する疑問点
確かに、被告が、この判決文に示された通りの言動をしたとすれば、確かにやや疑問は感じる。しかし、私自身は、この事案の具体的事例について知っているわけではないので、あくまでも判決文からの印象であるが、はっきり申し上げていささか疑問を感じている側である。
ア 「自律神経失調症」の患者は本当に励ましてはならないのか?
第一に、判決文はがかなり一方的に、「自律神経失調症の患者に面談する産業医としては、安易な激励や、圧迫的な言動、患者を突き放して自助努力を促すような言動により、患者の病状が悪化する危険性が高いことを知り、そのような言動を避けることが合理的に期待されるものと認められる」として、そのことが正しいことを前提に判断を下していることである。
だが、本当にこの前提は疑いもなく正しいことなのだろうか。「自律神経失調症」などという用語は、少なくともまともな医学書には出てこない「病名」である。実務においては、かなり広い範囲の疾患について、会社や学校へ提出する診断書に、この「病名」をつけることがあることは常識であろう。その広い範囲の疾患の患者すべてに「安易な激励や、圧迫的な言動、患者を突き放して自助努力を促すような言動により、患者の病状が悪化する危険性が高い」などと、医学的にいえるのだろうか。その点が、まず疑問なのである。
精神的な疾患とはいえ、ある程度は自助努力を促すことが必要な患者もいるだろうし、励ますことが必要な患者もいるはずである。そこを一方的に法律の専門家に、それは危険で違法な行為だといわれたのでは、医師の側はそのような患者に対して必要な治療ができなくなってしまう。
イ あまりにも説明が不親切である
第二に、判決は「(被告は)原告に対し、薬に頼らず頑張るよう力を込めて励ましたり、原告の現在の生活を直接的な表現で否定的に評価し,その克服に向けた努力を求めたりしていた」としているが、ここは当事者に争いのあったところである。そこを認定するなら、認定する根拠をもう少し当事者に納得できるように、ていねいに判示すべきではなかろうか。
確かに、このような書き方をされれば、被告に問題があるように思えるが、原告の症状に薬物の効果があるかどうかは医学的な争点であるという見方もできるだろうし、現在の生活状況に問題があればそこの改善を求めなければなんのための面談かということになるだろう。要は、被告の「言い方」にあるのだろうが、その言い方についての裁判所の判断に、係長の証言は証拠として採用されていない。であれば、それは当事者の水掛け論でしかない。
被告が、丁寧な説明をしたにもかかわらず、原告には強い調子に聞こえたという可能性もあるのではなかろうか。ここの判断は、もう少し慎重に行うべきだったのではないかと思える。
ウ 原告の病状の悪化と被告の行為の間に因果関係があるのか
第三に、主治医の診断書に、原告は、この面談によって症状が悪化したとされているのだが、判決はあっさりとその内容を正しいと認定している。しかし、その診断は原告の申告に基づいて、そのまま記された可能性も否定できないのではなかろうか。本当に医学的にそこまで明確な診断ができるのだろうか。被告の言動が原告の症状悪化の「原因」となったのと、「きっかけ」にすぎないのとでは、法律的な効果はまったく異なるのである。私は、この点についてもいささか疑問無しとしない。
簡単に診断書の記述を信用して採用するのではなく、もう少し、慎重な判断をするべきだったように思える。
エ 過失相殺がされるべきではないか
第四に、少なくとも原告は、K協会から打診された結果にせよ、自分の判断で職場復帰をしようとしていたのである。職場に復帰すれば、上司、同僚、顧客などと接することになるであろう。上司や同僚はともかく、顧客には原告が精神的な疾患があるかどうかなど分かりはしないのである。K協会に何かの問題があれば、顧客から原告が強硬に非難されることもあるだろう。「安易な激励や、圧迫的な言動、患者を突き放して自助努力を促すような言動」で病状が悪化するようでは、職場復帰などとてもできないのではなかろうか。
失礼ながら、被告の側も、これらの点について、もう少し争っておくべきだったように思える。この判決を読んで受ける印象は、いかにも裁判所がおざなりに証拠を調べて、お手軽に判断をしているというものである。
(2)この判決の評価すべき点
一方、この判決について評価すべきと思うところは、「被告には、産業医として合理的に期待される一般的知見を踏まえて、面談相手である原告の病状の概略を把握し、面談においてその病状を悪化させるような言動を差し控えるべき注意義務を負っていたものと言える。そして、産業医には,メンタルヘルスにつき一通りの医学的知識を有することが合理的に期待されるものというべきである」としている点である。
あくまでも一般論ではあるが、これからの産業医には、一定のメンタルヘルスに関しての知識が必要であるという警鐘を鳴らしたという点では、大いに評価できると考えている。