企業リスクの回避と専門家の育成




トップ
企業倒産

現代の企業は、存続を危ぶまれるほどの様々なリスクに囲まれています。これらのリスクを回避して持続可能性を高めるためには、専門家の知識の活用が何よりも重要となります。

短期的な利益に目を奪われて、専門家の育成を怠ってはなりません。本稿では、専門家の育成の重要性について論じています。



1 民間企業A社に起きた問題

執筆日時:

※ この原稿は、筆者が中央労働災害防止協会 労働衛生調査分析センター副所長だったときに、「厚生労働科学WEEKLY」(2013年3月1日号)の巻頭言のために「リスク回避と、専門家を育成するためのコスト」と題して執筆したものである。本サイトに衆力するに当たって、最低限の明らかな誤植を修正するとともに、小見出しを付けた。


(1)A社における事故の発生

筆者の大学時代の後輩の企業(仮にA社としよう)で、社内のシステムがダウンして現在も不調が続いているという。企業にとっては深刻な事態である。しかも、この事故の異常なところは、社内の技術者は十数年前からいずれこのような事故が起きることが予測できたというのである。社内の技術者が判っていてこれだけの重大事故が起きる。なぜなのか。


(2)A社における過去のコスト削減

話は十数年前に遡る。それまでA社は社内システムを一括して、開発/運用を業界では有名企業であるB社に任せていた。それが経費削減の号令の下、個別のシステムごとに入札にかけることにしたのである。A社には社内LANシステムがあり、個々のシステムはLANの基本システム上で動作するようになっている。入札制度を導入した結果、個々のシステムとLANの基本システムを担当する企業が別々になったわけである。だが、発注コストはそれまでの二分の一から五分の一になったというから、担当重役の評価は大きく上がった。

技術者たちは不安を感じた。だが、リスクに関する知識や情報というものは、それを得ることよりも、権限のある者に正しいと理解させることの方が難しいものである。技術者たちの意見は採用されることはなく、あきらめた後は評論家のようになってしまった。


(3)コスト削減がもたらしたもの

コストの削減と一連の経緯は彼らのモチベーションを落とした。その後、システムを担当する技術社員が一人、二人と辞めてゆき、その後は非正規労働者で埋められた。人件費の削減が進み、数字上の経営状態は改善され、担当重役の実績は上がった。しかし、内外にシステム全体を理解している技術者がいなくなり、ノウハウの継承もされなくなってしまった。事故勃発への不可避な状況が徐々にではあるが確実に進んでいたのである。


(4)変化への対応が不可能な体質となっていた

さて、最近になって、基本システムを新たなものに切替えることになった。この作業を請け負ったC社は、基本システムの入れ替えだけを依頼され、その上で動作する個別のシステムの改修はA社の責任だと考えていた。技術者であれば当然であろう。自ら開発したわけでもないシステムの動作を保障することなどできるわけがない。一方、A社はC社の責任ですべての個々のシステムが正常に動作できるようにするものと考えていた。これも技術的素養の少ない一般ユーザーとしては自然な考え方である。ただ、お互いの考え方に齟齬があることにA社とC社の誰も気づかなかったところに悲劇があった。これが今回の事故を引き起こす直接の原因ではある。

システムの切り替えの日、当然ではあるがシステムはダウンし、今に至るも不調が続いている。責任体制が明確になっていて、その責任に応じた知識を職員が有している組織であれば、起こりえないような事故である。ところが、こういったことが現実の日本の企業で起きているのである。

だが、A社の「不幸」はそれだけでは終わらなかった。個々のシステムを請け負っている企業のひとつが、担当者の辞職を理由に、その後のシステムの保守/管理を断ってきたのである。実は、この業務は、毎年、入札にかけられる。応札しなかったとしても契約違反ではない。しかし、それでは迷惑をかけるというので、事前に通告してきたわけだ。

因みに、システムエンジニアやプログラマというものは、通常であれば、自分がいなくなったとしても後任者がそのシステムを動かせるように配意してシステムを組み立てるものである。システムの構造を他人が見て分かりやすいものにし、内部向けのマニュアルを整備し、プログラムの中にコメントを多数埋め込む。

しかし、入札制度の下ではその必要性は低い。来年も自社で担当するかどうかさえ分からないのである。また、低価格を実現するためには、そのような部分を真っ先に削減することが「合理的」だろう。顧客には見えない部分だし、仕様書にも現れないからだ。さらに、競争下で価格をぎりぎりまで引き下げようとすれば、そのシステムを理解できる後任者を育てる余裕もなくなってしまう。


2 現在の政府で起きていること


(1)国家で起き得るリスクとは

さて、ここからが本題である。眼を国家レベルに転じよう。

どのような社会でも、人間の活動によって、様々なリスクが発生する。一例として、国民に「ときならぬ死」をもたらすリスクをいくつか挙げてみよう。平成23年の数字だが、労働災害(1,024名(震災によるものを含まず))、自殺(30,651名)、交通事故(4,611名)、火災(1,738名(22年))、水難(795名(行方不明を含む))、殺人(442名)、食中毒(11名)などがある。


(2)リスクへの備え

では、これらのリスク要因に対する対策としてどの程度のコストをかけるべきだろうか。おそらく、一般の人が考える答は、先ほどの死者数には比例しないだろう。もちろん、死者の少ないリスク要因には対策のコストが少なくてもよいというのは、近代的市民社会における正義に反するだろう。そもそも、損害の大きさは死者数だけで図られるようなものではない。また、自ら望むリスク(喫煙やアルコールなど)と強制されたリスク(労働災害、食中毒など)を同じにするわけにもいくまい。


(3)リスクへ備えるには専門家の育成が必須である

(それはさておき)ここで強調したいことは、かけるべきコストには、様々なリスクへの対策に関する専門家や専門機関の維持・育成の費用を含ませることを忘れてはならないということだ。どのような分野の専門家や専門機関であっても、必要になったときに高額の費用を出しさえすれば突然に現れるというようなものではない。まして社会的に光の当たりにくいリスクの専門家となればなおさらだ。現に存在する専門家や専門機関を維持し、さらには後継を育ててゆくためのコストを社会が負担するとともに、彼らを社会が評価する必要がある。そうしなければ、優秀な若者は、誰もそのような道に進もうとはしなくなる。

しかも、我が国においては、専門家の知識が無償又は安価に使えるという意識が、国民の中にあるのだ。弁護士事務所や司法書士事務所にさえ、無償で相談できると信じて、電話をかける人びとがかなりいるという。これは、おそらく国や地方自治体が費用を負担する専門家が、安価で良質なサービスを提供しているためである。


(4)国家のリスクへの対処には専門家集団が必要

このような状況下で専門家たちを「神の見えざる手=市場原理」に委ねたらどうなるだろうか。答えはいうまでもあるまい。そして、一度、失われた専門家や専門機関の集団を再構築することは不可能に近いのである。100年に1度しか発生しないような災害発生のリスクの専門家や専門機関は、99年間は役立たずの代物に見えるかもしれない。だからといって、社会が彼らの維持・育成の費用を負担しようとしなければどうなるだろうか。おそらく、災害が発生したときには、どこにも専門家がいないということになることは確実である。

これからは、専門家の知識を活用するには適切な負担をする必要があるということを、国家レベルでも企業レベルでも理解するべきである。さらに進んで、リスクに対して適切なコストを負担するという意識を、我が国の中に醸し出すための行政の施策が必要なときにきているのではなかろうか。

前半に掲げたA社のような愚を国家レベルで引き起こすようなことはあってはならないのである。





プライバシーポリシー 利用規約