緊急事態発生時の危機管理と情報伝達




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タンカー事故

緊急事態が発生した場合、何よりも情報を必要な人々に伝えることが重要になります。それとともに、緊急事態における情報共有もまた極めて重要なものです。

しかし、情報というものは、思うようには伝わらず、また共有もスムーズにはできないものです。情報管理のために何が必要かを解説しています。




1 はじめに

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(1)危機管理において重要なこと

企業経営においては、大小の様々な緊急事態、言葉を換えれば"危機"が起こり得る。大規模な例としては大地震や集中豪雨などの自然災害による大規模な被害がある。また、小規模であっても無視しえないものとしては従業員が引き起こす不祥事の発覚、従業員が巻き込まれる事故や災害、第三者の不法行為による被害などがある。

そして、その物理的な距離関係も、近くは事業場の内部で発生するものもあれば、遠くは海外において発生するものもある。

このような緊急事態発生時において、きわめて重要なことのひとつに、現場から責任者に対して、必要な情報を速やかに伝えるということがある。発生した事態に対して迅速に適切な対応を行うためには、情報が必要不可欠だからである。そして、理想としては、

【情報伝達の理想形】

  • ① 対応を行うべき権限と責任を有する者に対して、
  • ② 速やかに、
  • ③ できるだけ正確で漏れのない情報を、
  • ④ 誤解を与えないように

伝えることである。このようなことは、企業の経営に携わっていれば誰でもよく分かっていることであろう。

ただ、②と③はしばしば相反するのである。また、④については、よく分かってはいることだが、誤解は常に起こり得ることである。そこで、情報を扱うときは、情報というものはしばしば誤っていたり、誤って伝わったりすることがあるということに、常に留意しなければならない。


(2)緊急事態発生時の情報伝達について

現実に緊急事態が発生した場合に、正確で内容の十分な情報が、誤解されることなく伝わるなどということは、まずあり得ないのである。意外に見落とされがちなのだが、むしろ、緊急事態の発生時に備えて、"情報というものは簡単には伝わらない"ということを関係者が予め認識しておくことの方が必要なのだ。

ところが、実際に危機が発生してみると、頭の中で分かっていても、つい情報は正確に伝わるものと思い込んでしまい、そのために被害を大きくしてしまうことがあるのだ。情報というものは、意識して伝えなければ伝わることはないし、伝わったとしても誤解されて伝わることもある。ところが、"これだけの大きな騒ぎだからみんな知っているはず"などと思い込み、その当然のことを忘れてしまうのである。

重大な事件が発生して、関係者が大騒ぎをしているとき、その大騒ぎをしている同じ場所で働いている関係者ではない職員が、そのことを知らなかったということがある。そのようなとき、騒ぎの渦中にいる者が怒り出すことがあるが、それは情報を知らない職員が怠惰だということではない。むしろ、そのようなことは特殊なことでもなんでもなく、よくあることなのである。

ア ベトナム戦争における錯誤

ベトナム戦争の初期のころ、米軍の高官が軍事視察のために南ベトナムを訪れたことがある。解放戦線側は、そのタイミングで一斉に南ベトナム軍や米軍に対して攻撃を仕掛けた。米軍側は、これを北ベトナム政府の徹底抗戦の意思表示とみた。彼らに和平の意図はないものと判断したのである。そして、そのことが、その後の和平交渉に影を落とすことになる。

時は移り、ベトナム戦争が終結し、米越間の関係も改善されたとき、米軍とベトナム軍の開戦時の責任者が、ベトナム戦争について一堂に会して話し合ったことがある。そのとき、米軍側は、米軍高官の南越訪問の機会を狙っての解放戦線の一斉攻撃について話題にした。そのときの、ベトナム側の説明は米国側を驚かせるものだった。彼らは「米軍の高官が訪れていたことなど知らなかった」と述べたのである。

米軍側は、驚いて確認したが、ベトナム側の説明は変わらなかった。実を言えば、そもそも仮にベトナム軍の中枢部がそのことを知ったとしても、実際に攻撃を行う地方部隊に伝える手段などなかったのである。各地方の部隊は攻撃に有利な時に攻撃するように命じられていただけだった。米軍高官が訪南越したときに攻撃を行ったのは全くの偶然だったのである。

米軍は、解放戦線側の情報伝達の能力を過大に評価して、存在してもいない彼らの意志を読み込んでしまったのだ。後知恵ではあるが、冷静になって分析しておけば、当時でも分かったことなのかもしれない。

ハノイから南ベトナムで戦っている解放戦線に対して、そう簡単に指示が伝えられるはずがないのである。米国と違って当時のベトナムの農村には電話網など完備してはいなかった。また彼らが長距離通信の可能な無線機を保有していないことも、米軍には分かっていた。連絡可能な手段があるとすれば、ラジオを用いて暗号か隠語で通信をすることくらいであろうが、実を言えばそのラジオもあまり普及してはいなかったのだ(※)

※ 当時の米軍は、ベトナムの農民がラジオ受信機を持っているのを見つけると没収して南ベトナム側へ渡していたが、ほとんど見つかることがないほどの数だった。

当時のベトナムの通信手段は、第一次世界大戦のレベルに達していなかったのである。ところが、近代的な軍隊である米軍には、情報というものは伝えることが可能なものとの思い込みがあったのだ。

一方、ベトナム側も米軍の側の情報伝達能力を過大に評価したことで、米軍の意図を読み誤っていたことがあった。パリで米越両国が和平交渉をしているときに合わせて、米軍が北爆を行うということがあった。このことは北ベトナム側を激怒させた。彼らにしてみれば、和平交渉をしているときに、もう一方で攻撃を行うなどというのは、許しがたい傲慢な行為と思えたのである。そして、このことは和平交渉の大きな妨げになった。

実をいえば、米軍の中枢部には、和平交渉をしながら一方で攻撃をしかけるという意図はなかったのである。和平交渉の日のかなり前に攻撃命令を出していたのだが、天候の不順などの理由で、攻撃が順延され、たまたま和平交渉と攻撃の時期が重なってしまったというミスだったのだ。本来なら和平交渉のときに攻撃をしないような配慮が行われるべきであろうが、そのような配慮をするべき立場の人間がいなかったか、いたとしても配慮をするべきことに気づかなかったのである。

意思の疎通の不備による重大なミスではあるが、北ベトナムの側は、これをミスだとは思わず、意図的に行っていると判断したのである。

イ 第二次世界大戦における情報伝達の祖語の例

(ア)ロンメルの退却許可要請

第二次大戦中も、この種の誤解によって戦闘に致命的な悪影響を与えることがよくあった。実を言えば、判断の誤りや情報伝達のミスは、少なくない戦闘において、きわめて重要な意味を持ったのである。

北アフリカ戦線でロンメルが指揮するDAK(ドイツアフリカ軍団)が、モントゴメリ率いる英軍の猛攻によって深刻な危機に陥ったことがある。このときロンメルはドイツ本国のヒトラーに対して、電信で退却の許可を求めた。ところが、ドイツ本国からは"勝利か然らずんば死か"という内容の回答がきたのである。

ロンメルは、これを退却拒否の命令と理解した。しかし、そのような命令は合理的ではなかった。合理的に判断すれば、今は退却すべき時なのだ。"すでに後退中"と変電して退却しようかとも考えたが、命令は命令である。ロンメルは抗戦することとし、結局は大きな被害を受けることとなったのである。

実は、この"命令"は、ロンメルが撤退の許可を求めるよりも前に作られていたのである。たんなる"督戦の激励電"にすぎなかったのだ。ロンメルの撤退許可の連絡の方は、ヒトラーが眠っていたために届くのが遅れ、その間に激励の通信だけは送られてしまったのである。

DAKのロンメルの部下で、これは督戦電報であり、何か月か前に作られたものかもしれないと意見具申する者がいた。しかし、ロンメルからみれば、退却許可を求める連絡を出した後で督戦激励の通信が来るとは思えない。本国で、退却の許可の連絡があれば、仮に回答が遅れるにせよ、退却許可の拒否と誤解されかねない督戦の電報を打つはずがないと考えたからだ。

(イ)台湾沖航空決戦の戦果報告

また、台湾沖航空戦で日本軍の"戦果"が、大本営海軍部/軍令部に対してばかばかしいまでに過大に伝わったこともよく知られている。この戦闘時の日本軍のパイロットは経験の浅いものが多かった。

軍艦に対して爆弾を投擲した直後に、艦から炎が上がって黒煙が出たとしても爆弾が命中したとは限らない。また、仮に命中したとしても、爆弾を投擲した後は、弾幕の中を退避することになるので、小破しただけなのか大破したのかの確認をすることは難しい。ところが、戦闘の心理として、大破や撃沈と思い込んでしまうのである。

さらに、戦闘の中では、駆逐艦程度の艦艇を巡洋艦と見誤り、巡洋艦を戦艦と見誤りやすいのである。これは、戦闘中の心理にあっては避けられないミスだった。また、実際に戦果をあげたとしても、複数の爆撃機が同じ艦艇を同時に攻撃していることも多く、戦果の報告が重複されて行われるのだ。

そして、パイロットから不確かな"戦果"報告を受けた現地部隊が、いずれも確実な戦果として、軍令部に報告してしまうのである。そればかりか、帰還機が挙げた戦果と同様な戦果を未帰還機もあげたはずだとして、報告を水増ししたという話さえ残っている。

現地部隊でも、このような大戦果の報告に疑いを持った者はいたが、軍令部に対して訂正の報告は行われなかった。このため大本営は、この戦果報告をもとにしてレイテでの軍事行動を行い、大敗北を喫するのである。

(ウ)ミッドウエイにおける報告の祖語

ミッドウエイにおける日米の機動部隊の決戦は、ドウリットルによる東京空襲を受けたために、米軍の機動部隊をせん滅しようとして、山本の発案で行なわれた海戦である。そもそも、ミッドウエイなど占領してみても維持できるはずがない(※)。主要な目的は機動部隊をおびき寄せて攻撃することにあったのである。

※ 確保可能な補給船の船腹数や、割くことのできる護衛艦の数から考えて補給が不可能であることは明らかだった。

従って、敵の機動部隊の発見に何よりも力を割かなければならないはずであった。近代戦においては、どちらが先に相手を見つけるかに勝敗がかかっているといっても過言ではないのである。

ミッドウエイ海戦においては、彼我の情報量に大きな違いがあったとよく指摘される。レーダの性能差や、暗号が解読されていたといった問題が指摘されることが多い。それだけでなく、このときも伝わるべき情報が伝わらないというミスが、以下のように数多く起きているのである。

【ミッドウェイ海戦における情報伝達のミス】

  • ① 作戦では、ハワイ方面からの敵機動部隊を発見するために、見張り役の潜水艦を配置することになっていた。ところが、潜水艦の他の任務が遅れたために配置も遅れ、結局は敵空母が通り過ぎた後に配置されることになったのだが、配置が遅れたという情報が山本に伝わらなかったのである。
  • ② 日本の機動部隊の南雲は山本に対して、敵機動部隊の動きが分かったら転電して欲しいと強く要望していた。山本は旗艦の大和の艦橋にいて、敵空母の動きを示唆する敵の無電を傍受する。ところが、これを南雲に転電しないのである。南雲の方が敵に近いので、南雲も傍受できたはずと思っていたのだ。ところが実際には艦橋の低い空母に乗っていた南雲は、これを傍受できていなかったのである。
  • ③ 南雲部隊は、ミッドウエイ攻撃に先立って、索敵機を飛ばすのだが、これの数が不十分(※1)だったことはともかく、より重大なミスは、索敵機が途中で雲があったので、雲の下ではなく上を飛んだことである。これでは雲があるところの索敵はできないのである。しかも、雲があったのでその上を飛んだという報告がないので、南雲は空母がいないと思ってしまうのである(※2)

※1 二段索敵(まず、夜のうちに半数の索敵機を発進させて、夜明けまでにある程度まで進ませる。これだと、夜間に飛行した海面の索敵が不十分になるので、さらに夜が明けてから残りを飛ばし、最初の索敵機が夜間に飛行した部分の索敵を行う)ではなく、一段索敵(夜が明けてからすべての索敵機を発進させる)を行った。これだと必要な索敵機の数は半分で済むが、敵の発見は遅れることとなる。

※2 ミッドウエイ海鮮では利根4号機の出発が遅れたために敵の空母発見が遅れたと思われているが、そうではない。実は利根4号機は定められた時間に艦に戻れるように途中で引き返しているのである。そして、復路で敵空母を発見したので、出発の遅れによって敵の発見が遅れたわけではない。隣を飛んだ索敵機が雲の上を飛んだことが敵発見の遅れにつながったのである。なお、利根4号機の出発が遅れたという事実も南雲に伝わっていなかった。

情報が的確に伝わっているはずだという思い込みが、敵空母はいないという判断につながり、このことが大きな損失につながったのである。

ウ 現代の行政組織において

(ア)情報の第一報が入るのは

現代の行政組織においてさえ、緊急事態においては、情報というものは簡単には伝わらないものなのである。大災害が発生した場合など、当然のことながら情報を速やかに関係者や責任者に伝えなければならない。ところが、外部で考えるほど、情報というものは速やかに伝わらないのだ。

大規模な労働災害が発生した場合、厚生労働本省の担当課はこれを把握しなければならない。その仕組みは構築されており、事故の第一報は様々なところから入ってくる。多くは、都道府県労働局からの電話連絡である。その都道府県労働局へは災害を発生させた事業場の他、被災者を運んだ消防関係者や、事情を把握した警察から報告が入ることもある。

その情報の発信元であるが、事故の発生を最初に知るのは、特殊なケースを除けば事故が発生した現場である(※)。その次は、現場から連絡を受けた彼らの上司やその企業の総務部門が知ることになる。さらに、事業場からは、救助を求めて消防に連絡が入ることが多い。すなわち、企業外で最初に情報を知るのは消防であることが多いのだ。そして、消防は警察に連絡を入れる。

※ 特殊なケースでは、現場よりも先に周辺住民が知ることもある。その場合でも、周辺住民は真っ先に消防か警察に情報を入れることが多い。

ここでスムーズにいけば、消防か警察から労働基準監督署に情報が入るのである。ところが、この連絡がうまくいかないことがある。一方、主要な警察署には地元紙やNHKの記者(※)が常駐している。その記者は事故が発生すればリアルタイムでそのことを把握するのだ。そして、記者の報告を受けた報道機関のデスクが報道すべきと判断すれば報道が行われることになる。

※ 民放各社に比べて、NHKの地方記者の数は桁違いに多い。また全国紙も記者を各地に常駐させているが、その数は地元紙に比較すればはるかに少ない。

そのため、労働局が地元紙やNHKの報道で事故が発生したことを知ることがままあるのだ。

これが何を意味しているかというと、厚生労働大臣や野党の国会議員が報道で事故の発生を知った後で、都道府県労働局から厚生労働本省の担当課に連絡が入ることになったり、逆に報道を見た本省から都道府県労働局へ連絡が入って調査を指示したりすることになるのである。

ところが、この時点では本省の担当課では報道されたこと以上には事故の内容が分からない。そのため、大臣に報告するにしても、テレビで確認した内容を報告した上で、"ただちに調査を行っている"としか言いようがないのである。

(イ)調査に入ってから報告が上がるまで

一方、調査に行くにしても、よほどの大事故でもない限り所轄の監督署の職員のみで対応し、大規模な事故でも都道府県労働局の数名の職員が応援に入る程度である。監督署の監督官の数は小規模所では2人から3人で、現時点ではこれに技官が1人加わっている。これに労働局の監督官と合わせても、現場へ行くのは、ほとんどの場合1人か2人、特殊なケースでも多くて4~6人程度である。

そして、調査から監督署へ戻ってから報告書を書き、都道府県労働局を通して本省へ報告が上がるのは午後の7時か8時を過ぎることとなる。

ところが、警察や消防の方は対応する人数が桁違いに多い。しかも独自の無線通信の設備を持っている。そのため、本庁への報告や報道対応のために、マンパワーを割くことが可能なのである。しかも、大規模な事故の場合、報道へのサービスで午後のニュースに間に合うように発表を行ったりする。

そうなると、厚生労働省の大臣は部下からの報告ではなく、ニュースで事故の詳細を知ることになるのである。大臣にしてみれば、担当省庁の総責任者たるものが、組織による報告ではなく、ニュースで事故の内容を知るのだ。組織から軽く見られているのではないかと疑心暗鬼になるとしても無理はないだろう。

だが、実際には、厚生労働省の職員は睡眠時間も十分に取れないほどの努力をして調査を行い、情報の収集に努めて、必要な情報の報告を行っているのだが。


2 迅速な情報の共有化に必要なこと

(1)情報の伝達における禁忌

情報の共有化に必要なことは、迅速性である。そして、情報は、現場から発信して、関係部署から他部署へ、下級機関から上級機関へ上がってゆく。ここで、絶対に行ってはならないことは、以下の点である。

【情報伝達における禁忌】

  • ① 報告の順序にこだわること
  • ② 情報の内容に不備があるからと、情報を止めて差し戻すこと
  • ③ 思い込みで情報を"修正"すること
  • ④ 新たな情報が"ない"ことは伝えなくてもよいと考えること
  • ⑤ 情報は常に正確であるべきだと考えること

以下、これらの点について説明しよう。

ア 情報の順序にこだわってはならない

情報を伝達してゆくとき、組織によっては情報伝達の順序が予め決められていることがある。担当者、係長、課長補佐、課長、次長、部長と、その順序が飛ばせないのである。

今では様変わりしているが、昔の役所などにはその傾向があったことも事実である。平常状態であれば、そのことにもメリットがないわけではない。誤った情報を上に伝えず、正確な情報を伝えることに役立つ面があるからである。

ところが、緊急事態においては弊害となる。連絡網の途中で誰かが不在だと情報伝達が止まってしまうのだ。しかし、緊急時には、とにかく不確かな情報でも早く伝える必要がある。順序や正確性などにこだわっている場合ではないのである。そもそも緊急時の情報などには、矛盾や不明点がいくらでもあるもので、気にしていてもしかたがないのだ。

現在では、役所にもLANがはりめぐらされ、緊急な情報はすべてメールで流されるようになっている。"局長へ上げる情報はすべて俺のところへ上げてからにしろ"などということは起こりようがなくなっている。

イ 情報の内容に不備があっても、差し戻してはならない

繰り返しになるが、緊急時に上がってくる情報などというものは、矛盾や不備があるものなのだ。平時であれば、"ここがおかしいから調べなおせ"と言って差し戻してもよいだろうが、緊急時にはそのようなことはしてはならないのである。

とにかく情報を早く上げることの方が重要なのだ。三島由紀夫氏が自決したとき、警察庁にあがった情報の中に「三島氏は首と胴がちぎれている。生死のほどは不明」という連絡があったそうである。誰が考えても変だし、情報を上に伝える前に確認をしたくなるが、警察はさすがにこのような場合の対応を誤ることはなかった。そのまま情報を上にあげたのである。

さきほどのミッドウエイ海戦で、利根4号機が敵機動部隊を発見した時の第一報は「敵らしきもの見ゆ」であった。艦種や敵味方の別の情報が含まれていない。このため、偵察員が無能であったと見る向きもあるようだが、軍の専門家はそんなことは誰も問題にしていない。最初の報告はそれでよいのだ。むしろ、彼我の別や艦種を調べるために近づいて撃墜されてしまえば、連絡そのものができなくなる。味方の艦橋では、そんなところに味方の艦艇がいないことは分かっているのである。敵だということは言わなくても分かるのだ。

現場から離れた所で、報告された情報だけを見ていると"なんでこんなことも分からないのか、そのとき現場に居たものに聞けば分かるだろう"などと思えるかもしれない。しかし、そのとき現場に居たものは、病院の集中治療室にいるかもしれないし、そうでなくても、どこにいったか分からないということもあるのだ。

佐々敦之氏は、このような場合の情報は、何も削らずなにも付け加えずに上げるべきだと言っている。まさにその通りである。

ウ 思い込みで情報を修正しないこと

傍目八目という言葉がある。当事者でない者には、当事者には見えていないものが見えるということである。そのため、報告された情報を見ると訂正したくなることが、ままあるものだ。しかし、緊急時の情報は訂正してはならないのである。

例えば、大規模な爆発事故が発生し、現場から男女の別さえわからない黒焦げの遺体が2体発見されたとしよう。そして、爆発した現場にいたはずの2名の労働者が見つからないとする。

現場からの報告が、「人的被害は死亡2名(遺体発見)。また、現場にいた2名の労働者の行方が分からなくなっている」とされていたとしよう。この報告を見れば、遺体は行方不明になっている2名の労働者だと思うのは当然かもしれない。そこで「行方が分からなくなっている」を削除して、「人的被害は現場にいた労働者2名が死亡」としたくなるかもしれない。

だが、そうしてはならない。ことによると、2名の遺体は、たまたま現場を訪問していた他企業の人間かもしれないのである。行方不明になっている労働者の方は、バラバラになって遺体としての形を整えていないために発見されていないだけかもしれないし、生きていて恐怖心から現場を逃げだした可能性もあるのだ。

現場からの情報を、現場にいない者が修正することは、真実とは異なる方向へ歪んでしなうリスクがあると考えるべきである。

エ 新たな情報が"ない"ことも伝える必要があること

緊急事態で混乱しているとき、新たな情報があれば報告を上げるが、なければ上げないことが多い。しかし、情報を待っている側にしてみれば情報が"ない"ということも貴重な情報なのである。情報が上がってこなければ、忙しさにかまけて情報を上げないのか、上げるべき情報がないのかが分からないからである。

情報を待っている側が苛々しながら報告を待っているにもかかわらず、報告を上げるべき現場の方は、災害は収束し始めたということでのんびりしていたりすることがある。

このようなことに備えて、予め緊急時のルールとして定時報告の制度を設けておき、必要があれば事故時にもそのことを徹底するべきである。

オ 情報は"正確"であるべきと考えてはならない

(ア)情報の価値は正しいことにあるのではない

また、ほぼここまでの繰り返しであるが、情報は"正しく"なければならないとは考えてはならない。このように言うと、少なくない人から反論が返ってくるかもしれない。多くのビジネスマンは、情報とは正しくなければならないと常に聞いているからである。

だが、緊急事態が発生した時の情報にとって大切なのは、"正しいこと"ではなく"根拠(=出所)が明確であること"なのである。根拠すなわちその情報がどこから出たかが分かれば、その精度と正確度が分かるのである。事故を起こした現場の担当者が言っているのか、会社の現場外の責任者が言っているのか、彼らは自ら見たことを言っているのか、伝聞なのかなどが重要なのだ。

端的に言えば、正しいかどうかではなく、どの程度正しいかが分かっていることが重要なのである。

例えば、誤っている可能性があるが、放置すれば多数の死傷者が出かねない事故が発生する恐れを示唆するような情報が得られたとしよう。もし、その情報を公表しなかった場合、その情報が正しければ多数の死者が出るおそれがある。一方、それを公表した場合、それが誤っていれば、いくつかの業者に深刻な経済的なダメージを与えるとともに、小さなパニックが発生するおそれがあるとしよう。

この情報は正しいかどうかはわからない。だが、その情報がどこから出たかは明確であるとしよう。この情報は公表するべきだろうか。

ほとんどの読者は、考えるまでもなく、そのような情報は公表しなければならないと考えるであろう。私もそう思う。

だが、そのように考えて情報を公開したところ、結果的に情報が誤っていて社会的に大きな批判を浴びた事件があるのだ。例えば、カイワレ大根のO-157騒動や、テレビA局によるT市の葉っぱもののダイオキシン報道事件がその例である。

(イ)国民の健康を守るための情報が誤っていた例

テレビA局の報道は「政府や地方自治体が情報を出さないから、民間機関で独自に調査したものを報道する」ということであった。しかし、実は、茶葉についての調査結果を野菜一般の調査結果として報道するというミスを犯していたのである。

この事件は、農家からテレビA局が訴えられ、1審と控訴審は農家側が敗訴したが、最高裁で控訴審に差し戻された。差し戻し審で和解したのだが、実質的にはテレビA局側の敗訴といってよいものであった。

1審と控訴審は、報道の目的が「公共の利害に関しもっぱら公益を図る目的でなされた」とし、放送の主要な部分である「所沢産の野菜から3.80pg/gのダイオキシン類が検出された」との内容について真実であるとの証明があったとして、テレビA局側の責任を認めなかったのである。

これに対して最高裁は、報道の主要な内容は「ほうれん草を中心とする所沢産の葉物野菜が全般的にダイオキシン類による高濃度の汚染状態にあり、その測定値が1g当たり「0.64~3.80pgTEQ」もの高い水準にある」というものであったとし、その点について「真実であるとの証明があるとはいえない」として、高裁に差し戻したのである。

カイワレ大根の方は、実際に大阪府堺市において学校給食によるO-157 の集団感染事件が発生していたという事実があって、政府が原因の調査を行った結果報告に関するものである。そのとき、中間報告としてカイワレ大根が「原因との可能性を否定できない」とし、その1月後の最終報告ではさらに一歩進んで「原因食材の可能性が高い」としたのだ。

この事件も国家賠償請求訴訟が行われ、1審で国が勝訴したが、控訴審と上告審で国が敗訴し、国の敗訴が確定した。

(ウ)ではどうするべきなのか

これらは、いずれも結果的には誤報であった。だが、仮の話ではあるが、これらが正しい情報であったにもかかわらず、確度が低いという理由で公表されていなかったとしたらどうなっていただろうか。

テレビA局と国が、確実な情報が得られるまで公表を控えたために、発表が数か月遅れたが、結果的に正しい結果だったとしたらどうなるだろうか。

その公表が遅れた数か月の間に、国民が健康被害を受けることとなった可能性もあるのだ。ここで、先ほどの問題提起をもう一度分かりやすくして繰り返そう。

【問題提起】

誤っている可能性があるが、多数の死傷者が出かねない事故が発生する恐れを示唆する情報があったとしよう。

この情報は完全に正しいかどうかはわからない。だが、その情報がどこから出たかは明確であるとしよう。この情報は公表するべきだろうか。それとも正しいということが分かるまで公表を待つべきだろうか。

誤っていた場合 正しかった場合
公表した場合 いくつかの業者に深刻な経済的なダメージを与えるとともに、小さなパニックが発生するおそれがある 国民の健康被害を防止できる
公表を待つ場合 業者の経済的な被害を起こすことはない 国民に死者が出るおそれがある

もちろん、業者へ深刻な影響を与えることについては、必要な対策をとるべきであろう。だが、このような場合は、やはり情報を公開するという判断も必要なのではなかろうか。

結果だけを見て、そこから責任を追及するようなことを行っていると、必要な情報が適切な時期に公開されなくなってしまうおそれがあるということを忘れてはならないのである。


(2)情報には不確かさがあることを前提とすること

ア 重要なのは情報の不確かさの程度を明確にすること

現在、天気予報では"降水確率"という用語が普通に使われる。これは、現在においては当然のことになっているし、特に疑問を持つことさえないであろう。

ところが、この用語が使われるようになるときには、ちょっとした議論があったのである。それまでは天気予報は「明日は雨」とか「明日は曇り」などと言っていた。そして、「雨」と予報したのに雨が降らないと「外れた」といわれ、「曇り」と予報したのに雨が降るとやはり「外れた」といわれていたのである。

しかし、このような予報の仕方は、かなり不親切だと言ってよい。予報する側が、明日の降水確率について、60%程度だと思っている場合と、100%だと思っている場合に、同じように"明日は雨"と予報すれば、予報を見る側は雨が降ることを前提として行動の予定を立てるしかないのである。あるいは、外れることもあると考えて行動の選択肢を増やすかもしれない。

だが、最初から明日の降水確率は100%と予報されれば、雨が降ることを前提として予定を立てればよいし、60%と予報されれば雨が降っても降らなくてもできる予定を立てればよいのだ。

情報とは、曖昧な部分があれば、曖昧であることを隠して結論めいたものを出すのではなく、曖昧な程度を伝えることが重要なのである。

イ 情報の有無と事実の有無を混同してはならない

ビジネスマンは、社会人になったときから常に"情報は正確に"と教えられている。そして、情報は正しいことに価値があると考えている。しかし、緊急事態においては、そのような考え方は捨てなければならない。

物理法則などと違って、社会的な事象や未来予測には確実な情報などないのである。イタリアで2009年4月にラクイラで大地震が発生し、死者309人が出たとき、地震予知科学者らが事前に"安全宣言"をしたとして過失致死罪(※)で起訴されたことがある。第1審は、起訴された被告人7名全員に禁固6年を言い渡したが、控訴審では1名を除いて無罪とし、1名を執行猶予付きの2年の禁固刑とした。

※ 仮に過失致死と訳したが、日本の過失致死罪とは構成要件は異なる。

この有罪判決は、世界中の地震学者の非難を浴びることとなった。このようなことで処罰されるなら、その後は誰も地震予知の科学者になどなろうとしなくなるだろう。ただでさえ、地震予知などというのは報われることの少ない学問である。地震の起きていないときは、無用の長物のように思われ、いざ地震が起きたときに予報ができなかったり、逆に地震予知を行ったにもかかわらず地震が起きなかったりすると、一斉に非難されるのである。この1審の有罪判決は、今後のイタリアの地震予知の研究を大きく遅らせ、未来のイタリア国民の安全を大きく損なったといえよう。

しかし、事前に"安全宣言"をしたというのは、やや軽率だったのかもしれない。この経緯を簡単に説明しておくと、地震の発生前に群発地震が起きていたことからイタリア政府が地震予知のための委員会を開催した。このとき、学者や行政官たちは「可能性がないとはいえない」としつつ「群発地震によってエネルギーが解放され地震の危険性は低くなっている」「群発地震の後に大地震が発生するとの証拠はない」と説明したのである。

すなわち、たんに「大地震発生の証拠はない」としただけで、"予想はできない"ということだったのだ。ところが、これが"地震は起きない"かのように報道発表され、その6日後に大地震が発生したのである。

すなわち、この有罪判決への批判は「被告人は予想ができなかっただけ」と理解しているにもかかわらず、学者たちを批判している市民は「被告人は安全だと言った」と理解していたのである。

情報を理解するときには、常に以下のことに留意しなければならない。

【情報の理解に必要なこと】

  •  情報がないことは、事実がないということを意味しないということを理解すること
  •  新しい化学物質に「有害性に関する情報がない」としても「有害性がないわけではない」
  •  未来予測や社会的な事象に関する情報には、確実なものは何もないということを、常に念頭におくこと

そして、その上で様々な事象に対応できるように備えることが重要なのである。

ウ 価値のある情報とは何か

繰り返しになるが、価値のある情報とは次のようなものである。

【価値のある情報とは】

  • 価値のある情報とは「正しい」情報ではない。価値のあるのは、根拠の明らかな情報、言葉を換えれば「どの程度の確率で正しいのかが明確な」情報なのである。

第二次世界大戦において、各国は少なくないスパイたちを用いていた。スパイたちは友好国で活動していたものも、敵国で活動していたものもいる。敵国で活動していたスパイたちが、情報を得るために様々な努力をしていたことは当然であるが、その情報を本国に"信用させる"ことにはさらなる努力が必要だったのである。

東京にいたソ連のスパイであるゾルゲは、ドイツ軍によるソ連攻撃の確実な情報を入手したにもかかわらず、それをスターリンに信用させることに失敗したのである。信用されない情報はないのと同じである。

また、中東に潜入したあるドイツのスパイたちは、本国のミスによって連合国にその存在を知られた可能性が出てしまった。そのスパイたちは優れた情報を入手したにもかかわらず、ドイツ本国では彼らの通信そのものを無視してしまう。敵国に利用されて、誤った情報を流される可能性があると考えられたためである。

まさに、彼らは"正しい"情報を入手したにもかかわらず、それが"正しいこと"を伝えることができなかったのである。


3 結論

緊急事態においては、何よりも情報収集が喫緊の課題となる。そして、緊急時においては、情報の価値は、まさに迅速さ、その根拠(どの程度信頼できる情報なのか)が明確になっていることが重要になるのである。

なお、本稿ではどのような情報をどのように伝えるかについて論じたが、情報を受け取った側が、それを有効に利用することが重要なことは言うまでもない。


(1)スーダンにおける情報収集とは

ア 自衛隊が派遣される場所とは

スーダンへの自衛隊の派遣に関して、国会で"法的な意味の戦闘"とは何かが議論になったことがある。しかし、私はこのことに強い違和感を持った。問題にするべきは"法的な意味"などではなく"実質的な意味"であろう。法的な意味での"戦闘"であろうがなかろうが、そのようなことはさして問題ではあるまい。

問題は自衛隊に危害が及ぶかどうか、自衛隊員が殺害されたり、逆に火器を用いて反撃する必要のある事態が起きたりしないかなのである。

稲田前防衛大臣によれば戦闘とは「国家または国家に準ずる組織(国準)間の紛争の一環として行われる人を殺傷し、または物を破壊する行為」なのだそうである(※)。内戦は戦闘とはいわないのだそうだ。

※ 2017年2月9日の朝日新聞記事「稲田氏「法的な戦闘行為でない」 陸自は「戦闘」報告 南スーダン」による

ということは「国際的な武力紛争の一環」ではない「人を殺傷し、または物を破壊する行為」が行われている場所、すなわち内戦程度のことが行われている場所へ自衛隊を派遣していると、防衛省の最高責任者が認めたようなものであろう。

冗談ではない。「国家に準ずる組織」でなくとも、重火器を保有する組織はいくらでもあるのだ。ソマリアでブラックホークが撃墜されて、米軍を危機的な状況に追い込んだ民兵は、到底、国家やそれに準ずる組織などとは言えなかった。彼らは、AK47(※1)やRPG(※2)を主要な武器としていたが、あれだけ米軍を苦しめたのである。

※1 旧ソ連が開発した歩兵用のアサルトライフル(機関銃)。数か国で製造されている。保守が容易で故障が少なく信頼性が高いために、非正規軍が好んで使用する。

※2 歩兵用の対戦車ロケット砲。第二次世界大戦の米軍のバズーカやドイツ軍のパンツァーファウストを高性能化したものと思えばよい。

そればかりか、世界的にみれば国家や国家に準ずる機関でなくとも、これらの武器はいうに及ばず、場合によっては装甲車や戦車まで保有しているケースもあるのである。

イ 自衛隊がおかれていた状況

これに対してスーダンに派遣されている自衛隊が保有している武器は、9mm拳銃84丁、小銃297丁(89式又は64式)、5.56mm機関銃5丁だけである。野砲や山砲はいうにおよばず、迫撃砲や擲弾筒すらない。持参した自動車にしても、装甲されていないものばかりで、航空機も非武装の輸送機のみである。

仮に、本気で自衛隊を攻撃する組織があるとすれば、市街地であれば建物の陰からAK47やRPGを打ち込んでくるだろうし、広い場所ならロケット砲や山砲で砲撃をしてくるだろう。場合によってはトラックなどで自爆攻撃を仕掛けてくるかもしれない。

そうなれば装甲されていない自衛隊の保有する車両などは、たちまち破壊されてしまうだろうし、携帯している武器では応戦さえ困難であろう。

ウ 情報収集の必要性

であれば、東京の防衛省としては、何よりも現地の情報収集を確実行わなければならないだろう。それは、我が国の国民である自衛官を危険に陥らせないために必要なことなのである。

破棄されたという"日報"などは現地の情勢を知るためにきわめて重要な資料であろう。河野統幕長は、現地の部隊に対して「(言葉の)意味合いをよく理解して使うように」と指導したそう(※)だが、"戦闘"という言葉を使わずに、"目の前を銃弾が飛び交っている"と書けばよいのだろうか。しかし、一般的な意味ではそれこそまさに"戦闘"であろう。もし、それも許さないというのであれば、正確に現地の情勢を報告させる気がないと言うより他はないのではなかろうか。

※ 2017年2月10日の朝日新聞「(時時刻刻)PKO日報、迷走開示 防衛省、発見1カ月後に報告」による。

正確さを要する戦闘部隊の報告書に政治を持ち込むようでは、自衛隊員の生命を政争の具に用いていると言われてもしかたがないのである。

少なくとも危険な地域に日本国民である自衛官を送り込んでいる以上、正確に現地の情勢報告を行わせて、その詳細な分析を行うべきなのである。日報を廃棄したと言ってみたり、政治的に困るから銃弾が飛び交っていても"戦闘"と報告するなと言ってみたり、とても海外に戦闘部隊を送り込んだ責任者のやるべきことではない。そもそもこのような感覚では、海外派兵など行ってはならないのである。


(2)緊急時に責任者に求められること

緊急時に責任者に求められることは、できるだけ多くの情報を速やかに把握し、その中から取捨選択して決断を下し、その決断に対して責任を取るということであろう。

そして、情報というものは、理想は正しいことが正しく伝わるべきだが、緊急事態においては必ずしもそれは望めないということを理解しなければならない。

稲田前防衛相には、残念なことではあるが、現地情報を正確に分析させて報告させる能力も、何かあったときに泥をかぶって自ら責任を取る覚悟もなかったのである。このような人物が大臣をしているときに、スーダンへ派遣された自衛隊員は不幸というべきであろう。





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