※ イメージ図(©photoAC)
厚生労働省は「第14次労働災害防止計画の指標について(案)」を「第150回労働政策審議会安全衛生分科会」に提出しました。
第14次労働災害防止計画の目標(アウトカム指標)に示されている、転倒災害に関する目標は、2つの観点から大きな問題を内包しているものといわざるをえません。
転倒災害のアウトカム指標(目標)は、①増加傾向にある転倒の年齢層別死傷年千人率を2021年実績と比較して2027年までに男女ともその増加に歯止めをかける、②転倒による平均休業見込日数を2027年までに40日以下とするなどとされています。
しかし、前者は、労働者の年齢構成が急速に高齢化している現実においては、転倒災害発生件数の低下させる努力を放棄しようとするものといわざるを得ません。また、後者は、ほとんど意味のない目標であり、行政としてのセンスを疑わざるを得ません。
本稿では、これらのアウトカム指標の問題点を詳細に解説します。
- 1 第14次労働災害防止計画の転倒災害のアウトカム指標
- (1)第14次の労働災害防止計画
- (2)転倒災害に関する計画の目標
- 2 転倒災害に関する計画の目標の問題点
- (1)年齢層別死傷年千人率に目標を定めることについて
- (2)平均休業見込日数の減少を目標とすることについて
- (3)転倒災害の目標の素案について
- 3 最後に
1 第14次労働災害防止計画の転倒災害のアウトカム指標
執筆日時:
(1)第14次の労働災害防止計画
※ イメージ図(©photoAC)
労働災害防止計画は、いうまでもなく安衛法第2章に基づき、厚生労働大臣が定める労働災害防止のための国の基本計画である。これまで13次にわたって計画が策定されており、2022年度は、第13次防止計画の最終年度となる。
このため、2022年に新しい第14次計画の策定が行われる。そして、労働災害防止計画には、毎回、目標が定められる。この目標は、国が最も重要な課題だと考える事項について定められることとなる。
厚生労働省は、2022年11月16日に「第14次労働災害防止計画の指標について(案)」(※)を「第150回労働政策審議会安全衛生分科会」に提出した。これがこの時点での第14次労働災害防止計画の目標の素案である。
※ 2022年の化学物質関連の安衛法令改正は、5年後に自律的な管理が定着していれば、化学物質関連の特別規則を廃止することを想定して行ったとされている。従って、新しい労働災害防止計画では、化学物質の自律的な管理を定着させることが最も重要な課題となるはずであろう。
しかし、アウトプット指標(目標)は、転倒災害防止、高年齢者災害防止、多様な働き方対策などが前面に押し出されている。おそらく、安全、衛生、化学という行政内の順序付けの慣習を優先させたものであろう。
(2)転倒災害に関する計画の目標
本稿では、第14次労働災害防止計画の転倒災害に関する目標の問題点について指摘したい。
第150回労働政策審議会安全衛生分科会に提出された資料では、転倒災害のアウトプット指標(目標)の素案は、次のように定められている。
- 増加傾向にある転倒の年齢層別死傷年千人率を2021年実績と比較して2027年までに男女ともその増加に歯止めをかける。【P】
- 転倒による平均休業見込日数を2027年までに40日以下とする。【P】
※ リスト中の【P】は、pending(保留)を意味するが、行政用語としては「外部の意見等によっては変更があり得る」という意味に近い。
これは、労働災害を防止するという観点からはほとんど意味のない目標というしかない。本稿では、この問題について解説したい。
2 転倒災害に関する計画の目標の問題点
(1)年齢層別死傷年千人率に目標を定めることについて
ア 「増加に歯止めをかける」ことを目標とするのか
※ イメージ図(©photoAC)
これまでの労働災害防止計画では、目標は原則として災害の減少幅又は減少率を掲げている。すなわち増加することを「異常」ととらえ、計画によって災害を減少させるとしていたのである。
ところが今回は「増加に歯止めをかける」というのであるから、増加することを「常態」であるととらえ、計画の目標を増加させないようにするということである。ある意味で、大きな思想の変更=後退である。
もちろん、災害の性格によっては、そのような発想の転換も必要であろう。しかし、こと転倒災害に関する限り、年齢層別死傷年千人率を増加させないというのは、ほとんど意味のない目標となるのである。
イ 転倒災害の増加の要因は何か
転倒災害の最大の要因は何だろうか?それが高齢化であることは、厚生労働省としてもこれまで繰り返し説明している(※)。休業4日以上の転倒災害の発生件数の推移を業種別にみると、著しく増加しているのは保健衛生業である。
※ 例えば、厚生労働省WEBサイト「加齢と転倒災害」は「労働災害のうち「転倒」の割合を年齢別に見ると、50歳から急増し、60歳前半までをピークとする山型分布を示しています
」などとしている。
そして、保健衛生業における労働災害の発生件数の推移を事故の型別にみると、増加の著しいのが転倒と動作の反動・無理な動作なのである。
この原因が高齢化であることは、おそらく労働災害の専門家であれば誰でも同意するであろう。保健衛生業における年齢階層ごとの労働災害の発生の割合は次図のようになっている。
厚生労働省が労働災害発生件数の型別・年齢階層別のクロス集計を各年ごとに公表していないため、なんともいえないが、転倒災害の急激な増加の要因は、高齢労働者の急速な増加が原因となっていると、強く推測されるのである。
ウ 年齢層別死傷年千人率を減少させることを目的とする誤り
※ イメージ図(©photoAC)
繰り返すが、厚生労働省は、第14次労働災害防止計画の転倒災害のアウトプット指標(目標)の素案として、年齢層別死傷年千人率を減少させることを挙げている。しかし、そもそもこれは、就業人口が高齢化していることによる転倒災害の発生件数の増加には対応しないと宣言しているようなものである。
弱年齢者の労働者数よりも高年齢者の労働者数が増加すれば、転倒災害が増加することは明らかである。ところが、年齢階層ごとの転倒災害の年千人率が増加しなければ、厚生労働省の目標は達成できることとなる。
分かりやすく言えば、厚生労働省は、転倒災害発生件数の最大の増加要因である「就業構造の高齢化」による増加については、放置すると宣言したようなものなのである。
同じ年齢階層の労働者の、転倒災害が発生する比率を、増加させないといっているだけなのである。これを減少させるというならまだしも、これでは、転倒災害の対策を何もしなくても、50%の確率で目標は達成できるだろう。
安全衛生行政の存在意義が問われることになりはしまいか。あまりにも、労働災害に取り組もうという意思が感じられないのである。
エ 年齢層別死傷年千人率は増加傾向にあるのか
なお、厚生労働省は、第14次労働災害防止計画の指標について(案)の中で、年齢階層ごとの年千人率を減少させることには、実質的な意味があると主張しているようである。
これによると、2016年と2021年の年齢階層別の転倒災害の死傷年千人率は次表のようになっている。この期間(第13次労働災害防止計画期間)において、50~59歳及び60歳以上の年齢階層で、転倒災害の年千人率が増加しているのである。
そして、第14次労働災害防止計画期間中に、この増加傾向に歯止めをかけることが目標であるというのである。
男性 | 2016年 (実績) |
2021年 (実績) |
2027年 (目標) |
|
~19歳 | 0.27 | 0.29 | 増大させない |
0.29 |
---|---|---|---|---|
20~29歳 | 0.20 | 0.21 | 0.21 | |
30~39歳 | 0.24 | 0.25 | 0.25 | |
40~49歳 | 0.31 | 0.34 | 0.34 | |
50~59歳 | 0.46 | 0.58 | 0.58 | |
60歳~ | 0.60 | 0.80 | 0.80 | |
女性 | ||||
~19歳 | 0.23 | 0.21 | 0.21 | |
20~29歳 | 0.14 | 0.15 | 0.15 | |
30~39歳 | 0.18 | 0.19 | 0.19 | |
40~49歳 | 0.35 | 0.36 | 0.36 | |
50~59歳 | 1.01 | 1.07 | 1.07 | |
60歳~ | 1.75 | 2.06 | 2.06 |
しかし、年千人率の増加を目標とするのであれば、その増加傾向の理由を明らかにするべきであろう。その理由を明らかにしない限り、仮に今後の5年間で何もしなかった場合に、どのように変動するかは分からない。従って、これを目標とすることには、ほとんど意味がないのである。
そして、ここで注意しなければならないのは、上の表の2016年と2021年の変化は、労働災害の発生件数ではなく、発生する比率(年千人率)を比較しているということである。すなわち、各年齢階層ごとの労働者数の変化は何の関係もない(※)のである。
※ なぜか、厚生労働省の資料には、各年齢階層ごとの雇用者数の推移と見込みのグラフが記載されている。
上表をみれば明らかなように、顕著に年千人率が増加しているのは、50~59歳及び60歳以上の年齢階層だけである。すなわち、この5年間で、全年齢階層に共通な転倒のリスク要因が増えたわけではないということである。そのことから、容易に想像がつくが、この年齢階層内で年千人率が増加したのは、その階層内の労働者の平均年齢が上昇したからではないかと考えられる(※)のである。
※ 国内の人口全体で見れば、50~59歳の年齢階層の平均年齢は、2016年と2021年では、わずかながら若返っている。しかし、政府の「年齢階級別労働力率の推移」によると、50歳代の女性の就業率は、この間一貫して上昇するなど変化しており、必ずしも労働者の平均年齢は明確ではない。
60歳以上の年齢階層については、2013年4月施行の「高年齢者等の雇用の安定等に関する法律」の改正により、定年を定める場合の年齢が65歳に引き上げられることとされ、2025年までの経過措置によって段階的に引き上げられているところである。
従って、2016年、2021年、2022年及び2027年の、各年齢階層内の平均年齢(年齢構成)が明確にならない限り、あまり意味のない目標というしかないのである。
(2)平均休業見込日数の減少を目標とすることについて
ア なぜ休業見込み日数が長いのか
厚生労働省によれば、転倒災害の休業見込み日数は6割が1か月以上となっているとされている。やや古い資料だが、平成26年の転倒災害の休業期間別の割合が厚生労働省のパンフレット(※)に記載されている。
※ 厚生労働省「STOP!転倒災害プロジェクト」(2016年1月)。新しいパンフレットには詳細な数値が示されていない。
休業期間 | 割合 |
4日以上2週間未満 | 17.5% |
---|---|
2週間以上1カ月未満 | 21.1% |
1カ月以上3カ月未満 | 26.6% |
3カ月以上6カ月未満 | 24.3% |
6カ月以上 | 10.9% |
※ イメージ図(©illustAC)
問題は、なぜこうなっているのかである。ハインリヒの法則に待つまでもなく、現実の転倒災害の休業日数を反映しているとは考えにくいのである。
私は、これは、「意識されない労災隠し」が大きな原因ではないかと思っている。転倒は、機械に巻き込まれるような災害とは異なり、「自分で転んだ」と考えて労働災害だと意識されないことが意外に多いのである。
職場へ出勤していて、隣席の労働者から風邪をうつされても、労働災害とは誰も考えないであろう(※)。休業期間が短い場合、それと同様な処理がされることが多いのである。人事・労務担当者に報告されずに、職場のレベルで労災ではないと判断されて、有給休暇扱いにされてしまうのである。
※ 実を言えば、隣席の労働者から風邪をうつされた場合に労働災害にならないということを、理論的に説明することは不可能である。このような場合に労働災害にならないとする公的な文書はないと思う。
さすがに休業見込み日数が長くなると、人事・労務担当者に報告されるため、その時点で労働災害だと意識されるのである。これが平均休業日数が長くなる、本当の根拠だとしか考えられないのである。
イ 平均休業見込み日数を減少させることを目的とする誤り
※ イメージ図(©photoAC)
なぜ、平均休業見込み日数を減少させることをアウトプット指標(目標)とすることが誤りなのかは明らかであろう。要は、休業見込み日数の長い災害がまったく減少しなくても、休業見込み日数の短い災害が労働災害として報告されれば、目的が達成されてしまうからである。
一見すると、転倒しても重篤な災害にならないような対策を立てることによって達成される目標のように思えるが、実は、まったく意味のない目標なのである。
もちろん、転倒しても重篤な災害にならないような対策を立てること、それ自体は重要な課題である。しかし、それなら、すべての災害のトータルの休業日数を減らすことを目標とすべきであろう。
さらに付け加えるなら、人が転倒する災害の休業日数をどうやって減少させるというのだろうか。合理的な方法があるなら、それを示すべきであろう。これまで、厚生労働省が公表してきた転倒災害防止対策で、転倒災害を重篤化させないような方法を示したことはなかったと思う。もしあるのなら、ぜひ知りたいものである。
(3)転倒災害の目標の素案について
※ イメージ図(©photoAC)
以上、説明してきたが、転倒災害に関するアウトプット指標(目標)の素案を見る限り、あまりにも労働災害を減らすという行政の使命感が感じられないのである。
年齢階層ごとに年千人率の増加傾向に歯止めをかけるとしたり、平均休業日数を減らすとしてみたり、あまりにも技巧的な目標である。こう言ってはなんだが、労せずして達成可能なそれらしい目標を無理やりに考え出したとしか思えないのである。
これまで厚生労働省の安全課は、転倒災害の減少が重要課題であると繰り返し述べてきている。そして、それは労働者の年齢が高齢化しているからだと説明してきた。
それなら、その対策の目標に、年齢階層ごとの年千人率の増加に歯止めをかけることを掲げるのはあまりにも消極的すぎよう。
3 最後に
労働災害は、かつては減少することが当然であった。ところが、2009年以降は増加することの方が常態となってしまった。
その最大の要因が転倒災害であることは、次図からも明らかである(※)。
※ 2020年と2021年の「その他」の増加の主な要因は、新型コロナによる感染症である。
そして、転倒災害が増加している最も大きな要因は高齢化である。また、挟まれ巻き込まれ災害や墜落・転落災害とは異なり、転倒災害の対策がきわめて困難であることも事実である。
しかし、年齢階層ごとの年千人率の増加に歯止めをかけるという目標を掲げることは、転倒災害の増加に対して無条件降伏を宣言するようなものであろう。
さらに、平均休業見込み日数を減少させるというのも、「災害を重篤化させない」というなら耳障りはいいが、現実にそのようなことができるとは思えないのである。具体的な手法がないにもかかわらず、目標だけ掲げてどうしようというのか。
結局は、休業見込み日数が少ない災害について、労働災害であることのキャンペーンによって死傷病報告の提出率を上げることくらいしか打つ手はないのではないか。
労働災害防止を任務とする行政組織として、多少なりとも矜持があるなら、次のような目標を掲げるべきだと最後に述べておく。
- 増加傾向にある転倒の年齢層別死傷者数を2021年実績と比較して2027年までに男女ともその増加に歯止めをかける。
- 転倒による休業見込日数の合計を2027年までに10%以上削減する。