健康のための徒歩通勤は「通勤」か




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メンタルヘルス対策

健康のために1駅か2駅程度の距離を徒歩で歩いていて事故に遭った場合、通勤災害として補償されないのではないかという疑問があります。

もちろん、個別事例については労働基準監督署長の判断になりますが、一般論として解説します。




1 はじめに

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(1)ある産業医の方からの質問

ア 健康のため、通勤時に一駅歩こうと指導していた

ある産業医の方から、どうしても分からないことがあるので、分かったら教えて欲しいとのお尋ねがあった。何だろうと思って、詳しくお聞きしたら次のようなことだった。

その産業医の方は、健康診断の際に労働者の問診を担当しておられるのだが、生活習慣病の予備軍の方に対して、生活習慣の改善のためできることから始めましょうと、通勤の際に駅ではエスカレータを使わずに階段を使うようにする、バスや電車は1駅前で降りて歩くようにすることを指導していたのだという。そこまではよくあることだろう。

イ でも、それって事故が起きたときに保障されるの?

ところが、会社の人事労務管理部門から、そのような指導をしないで欲しいと、やんわり注意されたのだという。なぜだろうと思って、理由を聞くと次のようなことだったという。

人事労務管理部門の挙げた理由は、通勤経路は会社に届けられているので、その経路と異なった経路で通勤をしているときに交通事故に遭うと、労災保険(通勤災害)で補償されなくなる。そのため、バスや電車を1駅前で降りて歩いていると、そのとき交通事故に遭うと通勤災害として補償されなくなるというのである。また、エスカレータがあるのに階段を上っていると通勤災害の補償額が減額されるとも言ったそうである。


(2)通勤災害補償の重要性

確かに、人事労務管理部門の方の感じておられる不安感は理解できないでもない。産業医は基本的に企業の側の人間であり、その指導で行ったことのために災害が発生して補償されないのでは、企業として責任を問われることになりかねないからである。

通勤途上の事故が労災保険によって保障されるということは、誰でも知っていることだろう。ところが、労働災害とは異なり、他の保険によって損害補償されることが多いため、現実に事故が起きたときに、あまり気にされないことも多い。

しかし、加害者が任意保険に加入していなければ自賠責保険だけでは損害の完全な補償は行われないだろうし、自損事故の場合、契約によっては任意保険の補償の対象外となることもありえよう。労災保険が重要な意味を持つ場合も少なくはないのである。


(3)質問への回答と産業医の方からの依頼

ア 公的な文書に書かれた根拠が必要だという

そのとき私は、合理的な経路及び方法で通勤していれば、補償はされますからそれは人事労務管理部門の方の誤解ではないでしょうかと答えたのだが、産業医の方は納得されなかった。明確に法令か通達で書かれているものを示さないと、人事労務管理部門に説明できないというのである。それは、たしかにそうだろう。

その産業医の方は、私が現役時代にお世話になっている先生でもあり、文書上の根拠がないかを調べることを約束した。

イ 公的な文書が存在していない

ところが、実際に調べてみるとこれが存在していないのである。当然ことながら、あまりにも当たり前のことは通達で示す必要がないので通達が存在していないのだ。また、現実に問題になっていないようなケースについてまで行政は通達を発出したりはしないのである。あらゆるケースについて通達が存在しているわけではないのだ。

今回の場合は、エスカレータを使わなかったという理由で補償額が減額されることはないというのは、あまりにも当然のことなので通達などないのである。また、1駅前で降りて歩いていて事故になった場合の補償というのも、当然のことだからか問題になったことがないからか、調べてみても通達は示されていないのである。


(4)通勤災害とは

こういう場合、厚生労働省に正面から質問すれば、「個別に判断する必要がある」「個別事例は、監督署に相談して欲しい」という回答が返ってくるだけだろう。そこで、自分なりに調べてみることにした。

なお補償の対象となる「通勤」とは何かについては、労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)第7条第2項に定められている。

【労災保険法】

第7条 この法律による保険給付は、次に掲げる保険給付とする。

 労働者の業務上の負傷、疾病、障害又は死亡(以下「業務災害」という。)に関する保険給付

 複数事業労働者(これに類する者として厚生労働省令で定めるものを含む。以下同じ。)の二以上の事業の業務を要因とする負傷、疾病、障害又は死亡(以下「複数業務要因災害」という。)に関する保険給付(前号に掲げるものを除く。以下同じ。)

 労働者の通勤による負傷、疾病、障害又は死亡(以下「通勤災害」という。)に関する保険給付

 二次健康診断等給付

 前項第三号の通勤とは、労働者が、就業に関し、次に掲げる移動を、合理的な経路及び方法により行うことをいい、業務の性質を有するものを除くものとする

 住居と就業の場所との間の往復

 厚生労働省令で定める就業の場所から他の就業の場所への移動

 第一号に掲げる往復に先行し、又は後続する住居間の移動(厚生労働省令で定める要件に該当するものに限る。)

 労働者が、前項各号に掲げる移動の経路を逸脱し、又は同項各号に掲げる移動を中断した場合においては、当該逸脱又は中断の間及びその後の同項各号に掲げる移動は、第一項第三号の通勤としない。ただし、当該逸脱又は中断が、日常生活上必要な行為であつて厚生労働省令で定めるものをやむを得ない事由により行うための最小限度のものである場合は、当該逸脱又は中断の間を除き、この限りでない。

この条文は国の労災保険の担当者や社会保険労務士であれば、誰でも何も見ずに言えるほどよく知られている条文である。この第2項により、「住居と就業の場所との間の往復を、合理的な経路及び方法により行う」ことが通勤になるのである。どこにも、「会社に届け出られた経路」でなければならないなどとは書かれていないのだ。

会社には最寄りの駅までバスで往復すると届けてあるが、雨が激しいので家族に駅まで車で迎えに来てもらったからと言って、補償されなくなることはない。まして駅で隣にエスカレータがあるのに階段を登ったからと言って「合理的な方法」でなくなるわけがない。

問題は、1駅前で降りて歩いた場合である。「合理的な方法」かどうかは人によって判断は異なるかもしれない(※)。もう少し調べてみる必要がありそうだ。

※ 司法書士、社会保険労務士などの法人の中央グループというサイトで明確に「通勤災害にならない」と言い切っているものがある。社会保険労務士でさえ、このような考えをネットに公開している例があることは事実なのだ。


2 健康のために徒歩で通勤することは、合理的な方法か

(1)関係する通達

さて、健康のために歩くことが、「合理的な経路及び方法」といえるかどうかについて通達はないと言ったが、関連するものはある。昭和48年11月22日基発第644号によれば、「乗車定期券に表示され、あるいは、会社に届出ているような鉄道、バス等の通常利用する経路及び通常これに代替することが考えられる経路等が合理的な経路となる」とあり、定期で利用する経路を代替したからと言って合理的でなくなるわけではない。

また、「徒歩の場合等、通常用いられる交通方法は、当該労働者が平常用いているか否かにかかわらず一般に合理的な方法と認められる」とされており、「平常用いている」方法を「徒歩」に切り替えたとしても、それは「合理的な方法」として認められないわけではないこととなる。

【昭和48年11月22日 基発第644号 労働者災害補償保険法の一部を改正する法律等の施行について】

5 「合理的な経路及び方法」の意義

  合理的な経路及び方法」とは、当該住居と就業の場所との間を往復する場合に、一般に労働者が用いるものと認められる経路及び手段等をいうものである。

(1)これをとくに経路に限っていえば、乗車定期券に表示され、あるいは、会社に届出ているような鉄道、バス等の通常利用する経路及び通常これに代替することが考えられる経路等が合理的な経路となることはいうまでもない。また、タクシー等を利用する場合に、通常利用することが考えられる経路が二、三あるような場合には、その経路は、いずれも合理的な経路となる。また、経路の道路工事、デモ行進等当日の交通事情により迂回してとる経路、マイカー通勤者が貸切の車庫を経由して通る経路等通勤のためにやむを得ずとることとなる経路は合理的な経路となる。さらに、他に子供を監護する者がいない共稼労働者などが託児所、親せき等に子供をあずけるためにとる経路などは、そのような立場にある労働者であれば、当然、就業のためにとらざるを得ない経路であるので、合理的な経路となるものと認められる。

   逆に、前にのべたところから明らかなように、特段の合理的な理由もなく著しく遠まわりとなるような経路をとる場合には、これは合理的な経路とは認められないことはいうまでもない。また、経路は、手段とあわせて合理的なものであることを要し、鉄道線路、鉄橋、トンネル等を歩行して通る場合は、合理的な経路とはならない。

(2)次に合理的な方法についてであるが、鉄道、バス等の公共交通機関を利用し、自動車、自転車等を本来の用法に従って使用する場合、徒歩の場合等、通常用いられる交通方法は、当該労働者が平常用いているか否かにかかわらず一般に合理的な方法と認められる。しかし、たとえば、免許を一度も取得したことのないような者が自動車を運転する場合、自動車、自転車等を泥酔して運転するような場合には、合理的な方法と認められないこととなる。なお、軽い飲酒運転の場合、単なる免許証不携帯、免許証更新忘れによる無免許運転の場合等は、必らずしも、合理性を欠くものとして取扱う必要はないが、この場合において、諸般の事情を勘案し、給付の支給制限が行われることがあることは当然である。


(2)厚労省の担当者の見解

知り合いの厚生労働省の労災補償の数人の担当者の方に、個人的に尋ねてみたが、とくに迷うことなく、1駅か2駅程度の距離を徒歩で歩くことは、それが通常の通勤の概念から外れるほど著しい長い距離や、合理的な理由から説明できないほどの遠回りとならない限り、通勤災害として認めるべきだろうと述べられた。

これは厚労省という組織としての公式見解ではないが、実務家の「感覚」であり、現実にこのようなケースがあった場合にも、同様な結論となるのではないかと思う。


(3)ある学者の方の見解

また、健康のために電車やバスを使わずに歩いた場合の事故が、「通勤災害」として補償されるかどうかについて、厚労省の労災補償部門とかかわりの深いある学者の方の書いた本に、次のように書かれていたと記憶している。

それによると、歩いた距離がそれほど長くなければ、「合理的な経路及び方法」であるといえるという。だが、例えば運動服に着替えてかなりの距離を走って自宅と職場の間を移動するような場合は、それはジョギングであってもはや通勤とはいえないので補償されないというのである。

著者も署名も忘れてしまっており、探してみたのだがその本が書庫に見当たらないので確認することができなかった。しかし、昭和48年11月22日基発第644号の内容とも合致している。また、十分に納得できる結論である。

しかもこの著者の方は、厚生労働省ともかかわりの強い方なので、厚労省の見解とも一致しているのではないかと思う。


(4)その他

なお、厚生労働省のサイトに東京急行電鉄株式会社柳内信二氏の「健康づくりの取り組み」が掲載されているが、「通勤時を運動の機会と捉えて、階段使用と徒歩活用を呼びかけています」との記述がある。徒歩による通勤は合理的な通勤として認められるという傍証になるのではないかと思う。


3 結論

以上によれば、定期券を購入し、通常はバスまたは電車で通勤している場合であったとしても、健康のために1駅か2駅程度前に降りて徒歩で歩くことは、通常の通勤の概念から外れるほど著しい長い距離や、合理的な理由から説明できないほどの遠回りとならない限り、それが通勤の目的の他に運動の目的を有していたとしても、「合理的な経路及び方法」であると認められるものと考える。

また、バスや電車の1駅又は2駅を徒歩で歩くということは、厚生労働省自身が、THPなどで推奨していることでもある。その途中で事故に遭ったからと言って通勤災害として認めないということにはならないのではなかろうかとも思う。





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